1603年家康の征夷大将軍拝賀の礼も二条城でを行われ徳川幕府本格始動。1867年15代徳川慶喜の大政奉還で江戸幕府の終わりを告げた二条城は江戸幕府の初めと終わりの場所ともいえる。このあと1614年大坂冬の陣では二条城は家康の本営となる。
真田太平記13-1半分読了まで全巻の流れをくみ天下に大きな動きはない。19になった秀頼、その容姿は立派で「類まれなるもの」だ。背丈180cmを超えふっくらした秀麗の美貌。物事に動じぬ判断力も「まさに天下人にふさわしい」家康が恐れも頷ける。天皇譲位・即位のため家康の上洛が近づいてい
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月19日
真田太平記13-2家康着京後も上洛要請せず。気をもむ豊臣方、だが高大院、清正、幸長の呼吸は水も漏らさぬ。遂に「お目にかかりたし」家康の使者が。秀頼を案じる淀の方を説得する清正と長野幸長、そこへ家康から「我が子を人質に」。これは家康の外交辞令、中ば大坂方への揶揄の意味も。巧みな家康
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月20日
真田泰平記13-3家康との面会に12年ぶり大坂城外に出る右大臣秀頼は四方あけはなしの駕乗り物で両脇は清正と幸長。群衆は秀頼の若々しくも堂々たる威容を「なんとご立派な」家康「ようまいられた」人々が見守る中で手をとり何度も打ち振り(これが秀頼か)群衆の喝采と威厳に満ちた清正に家康は・
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月20日
真田太平記13-4清正死因諸説あるだけに小説家としては腕の振るい所
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年8月21日
二条城で豊臣の臣の姿勢と、立派に成長した秀頼との緊密な関係を強く表現した清正69の家康は不安だ。が清正は強い味方でもある。甲賀忍びと真田草の者の暗躍は、この家康と65で危篤の昌幸の腹中を描いている様にも読める。
清正を我が懐に入れようと家康は政略結婚による結びつきは二重三重になっていた。いづれも家康から働きかけたものだ。2人の子同士だけでなく清正は正室がありながら家康の養女を妻に迎える。
p298に8代吉宗は清正の孫との説があるが、「あま姫」は八十姫?
徳川頼宣正室となった清正の娘八十姫に子はなく、側室が生んだ徳川光貞を実子同様に育て、その光貞の子が吉宗ということらしい。したがって清正と吉宗に血のつながりはない、ということになる。
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