『武将列伝』 江戸篇 (文春文庫 か 2-57) 文庫 – 2008/7/10
海音寺 潮五郎 (著) 1 件のカスタマーレビュー
真田幸村 立花一族(宗茂が主) 徳川家光 西郷隆盛 勝海舟
うしろの3人は2人と違い、武将のイメージにはピタリとははまらない。
一番それらしい真田幸村はページ数が最も少なく、得意の西郷はそれについで少ない。
「西郷」は、奄美大島に潜居するところまでで、経歴の1/3に満たずして終わる。編集の都合だろうか。
しかし、西郷と勝を合わせると全体の半分を超える。はじめから合わせるつもりだったのかもしれない。
西郷と対照的な性格でそれゆえに互いに惹かれる麟太郎にからめて西郷にも紙幅が割かれている。維新史も濃くなり流れも生まれる。
西郷は天性の大愚、人を欺くことなど決してできない。
麟太郎は目から鼻にぬけるような利口な人間だ。油断もスキもなく狡猾で横着な面もある。
そんな自分に不満を持つ麟太郎は、西郷の誠実と誠意をもって、礼儀正しく、謙虚で自分に勝る者には素直に敬服せずにいられない、神経質ではあるがそれにとらわれず、英雄的風貌が悠々として、ものに拘泥しないように見せもする、そんな西郷にあこがれて惚れ、西郷が気に入った。西郷もまた勝にたいへん感心し、敬服している。都会育ちと田舎育ちが気が合うというような単純なものでもないだろうが・・。
勝が西郷に会ったのは、蛤御門のあとの9月。西郷はこの年の2月、2度目の流謫をゆるされて沖永良部島から帰り軍賦役を命じられ38歳。「轡(くつわ)の紋のついた黒ちりめんも羽織を着て、なかなか立派な風采だったよ」と勝は日記に書いている。沖永良部から鹿児島へ帰りついた西郷は、足が立たたず、這いずりながら斉彬の墓参をしたといわれている。
wiki
轡(くつわ)=
西郷の約5年間は、ここではスッパリ抜け落ちている。西郷の約5年の島暮らしを知ることが、謎の多い西郷の実像に迫るにも、また彼の人間的魅力や思想の深まりを知る上で欠かせないことは言うまでもない。この時期の中央の動きは、のちの西郷の行動と思想を読む上で重要な点である。島で西郷はどのようにしてそれを知ったのか、島での西郷の暮らしは、著者のライフワーク「西郷隆盛」の第5巻に詳しい。
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西郷隆盛 第五巻 単行本 – 2008/1/11 海音寺 潮五郎 (著) 2015年08月18日 | 本と雑誌
西郷がふたたび登場するまでの中央政界の動きもめまぐるい動きは、第8節に手際よくまとめられている。
安政の大獄は、慶喜派と慶福派の将軍継嗣問題のこじれから起こっている。これほど大きな問題に全然タッチしていない。井伊暗殺後、長州は公武合体を模索する世論の動きに乗る。
ちょうどそのころ薩摩は久光の卒兵上京で朝廷の信任を得て、日の登るごとくの威勢。
長州もあせり、方針を倒幕に転換し、朝廷に取り入る。p300「維新史は一面から言えば、薩・長の勢力争いの歴史でもあるのだ」
生麦事件 薩英戦争 四国艦隊下関砲撃事件 薩長は攘夷の不可能を悟り、手を結び英国と仲良し倒幕のため武器を購入する。
著者 あとがき
昔、歴史は文学であった。そしてあらゆる学問の母であった。経済学も、社会学も、政治学も、倫理学も、 — 哲学すら、歴史の中にあった。
昔、読んで諸君歴史を読むべしとどこかで読んだ記憶がある。昔よんだ「武将列伝」(たしか全6巻)は今でも本棚にあるはずだが、これは図書館の海音寺潮五郎文庫の、今月のお勧め。
本書は1975年文春文庫より刊行された「武将列伝」全6巻を再編集したものです。
海音寺『武将列伝』江戸編1生まれながらの将軍だからできたのか3代家光(幕臣ら)は鎖国を完成した。鎖国の可否両論p79鎖国によって生じた功のごとく見えるのは、ことごとく日本人の功によるものであり、鎖国そのもの功ではない」学校で習った意見も時代と共に変わり自分の考えも齢と共に二転した
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年10月6日
西園寺『武将列伝』江戸編2下級武士西郷を抜擢した斉彬は全国の尊皇志士に影響力を持つ水戸の藤田東湖の元へ西郷を遊ばせ天下の情勢などを学ばせた。やがて東湖に心酔した西郷は攘夷思想を真正直に受け取り斉彬がに西洋の文物を研究するのが気に入らず諌言奉る。斉彬は西洋に学び力をつけた上の開国だ
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年10月7日
西園寺『武将列伝』江戸編3 西郷から水戸流の真向西洋嫌いを突きつけられた斉彬は西郷を東湖に学ばせたのは「薬が効きすぎたわい」と苦笑し「水戸の老公は、その方共が考える程の人物ではない」。これは過大評価と言いたいのだろう。海舟の東湖嫌いhttps://t.co/jbYqRNPl7O
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年10月7日
@amami_kaihu_soかなり速い 現在の定期船フェリーは鹿児島新港18時発の名瀬港着が翌朝5時頃。西郷の船は先に名瀬近くの大熊に立ち寄ったとする説も。 阿丹崎の在りし日(平成23年病気塩害等で「立ち枯れ」現在幹のみ)の西郷松→https://youtu.be/i1LXS8CJFVY
@amami_kaihu_so 安政の大獄、斉彬急死。西郷の殉死を諫めた勤王僧・月照にも大弾圧の追捕の手。月照を匿うべく鹿児島下った西郷だが藩状の変化はただならぬ。藩は井伊が怖い。庇護はならぬ。覚悟を決め二人は相抱き合って錦江湾に身を投じるが西郷のみ蘇生。奄美大島龍郷へ潜居3年半
海音寺『武将列伝』4 P237一月十一日払暁、西郷の乗った藩の砂糖積船福徳丸は山川港を出帆、折からの順風に帆を上げ、百里の水路を一気に乗り切って、翌日の昼頃、大島の阿旦崎港に着いた」地図https://t.co/Ydh1bPAMjg西郷の経歴1/3に及ばず、ここで紙幅つきる。
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年10月8日
海音寺『武将列伝』5p228奄美大島付近で座礁し助けられたジョン・ブルック大尉(米海軍軍人、大西洋横断海底ケーブルの敷設に多大な功績)の船フェニモア・クーパーは、奄美沖ではなく横浜で台風にあって流され久里浜沖で座礁したと思われる。https://t.co/BZwEce9nJO
— 奄美海風荘 (@amami_kaihu_so) 2016年10月9日