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10/21日 西郷どん 第39回『父、西郷隆盛』平均視聴率は12.3%。前回「傷だらけの維新」から2.1 P. up

2018年10月23日 | 歴史 民俗

5分で分かる「西郷どん」第39回『父、西郷隆盛』

10/21日「西郷(せご)どん」第39回「父、西郷隆盛」平均視聴率は12.3%。前回「傷だらけの維新」から2.1 P. up
 
「兄さあは、いくさの鬼になってしもうた」と嘆いてばかりいた従道は、フランス帰りになっていた。 
前回戊辰戦争から時代は一気に明治37年の京都市へ飛んだ。
 
西田敏行が演じる菊次郎は、43歳になっていて、京都市長に就任し、助役のインタビューに「父、西郷隆盛」の思い出を語る。原作本の冒頭はここから始まったのだった。
 
その2年前の明治35年(1902)母愛加那はもう帰らぬ人になっていた。1837年生 (65) (台湾で龍郷からの電報をうける)
 
菊次郎の話は明治2年のころから始まるが、それは菊次郎が龍郷から9歳で鹿児島西郷本家に引き取られる年である。
 
東京へ戻らねばならない西郷に養母となった糸は、もうしばらく菊次郎のそばにいてくれと頼む。寝床でそれを聞いていた菊次郎は迷う父上に
 
「東京へ行ってくりんしょれ(下さい)、父上・・自分のことより民が大事、そうでごわしたなぁ、父上、俺いもいつか父上のようになりたか、民のために働きとうございもす」
 
健気な菊次郎9歳は、涙をさそうが、菊次郎の言葉は、島の母愛加那の教えでもあった。
立派に育った菊次郎を見つめる西郷の顔は、度量の大きな糸と、立派に育てた愛加那への感謝の顔に見える。(愛加那を愛人、妾、などといったイメージでみてはいけない。大島随一の名家龍一族の娘なのだ・・)
 
ドラマはここでつづくになるのだが、その前に西郷の三弟・従道について。
 
従道は菊次郎が鹿児島に来た明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。
翌年に帰国、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)に任じられる。警察制度の確立にも尽した。
 
従道の兄さあに対するフランス土産の会話
 
「フランスにはpoliceちゅうもんがあっての」
「ポリス?」
膝をのりだし、にじるよる兄さあに、
「街の治安を守るサムライじゃ」
「ほう」
「俺いは日本の治安を守るポリスを創りたかっち思うちょおぅ」
「そいはよかぁ、そいができればサムライたちに新しか仕事を与えるこっができる」
互いに一献かたむける。(征韓論のことが頭をよぎるが、ここで多くは語るまい)
 
「兄さあ、俺いと一緒に東京へ来てくいもはんか」
。。。
「俺いは戊辰のいくさで大勢を死なせてしもた。政をする資格はなか」
。。。
「俺いもいくさは見たくなか、それにはやっぱり、戦わずして勝てるほどの強か軍がいる。政府直属の軍じゃ、そいを兄さあに創ってもらいたか。あいだけの犠牲を払ったんじゃ、あん者んたちの命を無駄にせんでくいやんせ」
と言って兄さあを連れ戻しにきたのだった。
 
「戦わずして勝てるほどの強か軍がいる」ち、この時点で非武装中立などありえないと・・。
 
帰京の説得は大久保の意をくんでのことだった。
 
従道は西南戦争では西郷軍にはつかず、菊次郎が17歳で従軍し、右足膝下から切断の重傷を負ったときに救うなど菊次郎の支えになっている。
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西郷菊次郎 略年譜(昔読んだ本を参考に書いたこのブログ記事のコピーです)
西郷 菊次郎(1861年(万延2年) - 1928年(昭和3年)
文久元年 万延2年(1861) 西郷隆盛と愛加那の長子として奄美大島 龍郷(たつごう)で生まれる。
西郷は35歳 愛加那25
西郷隆盛、藩主の島津斉彬(なりあきら)の急死で失脚し、奄美大島に流される。
安政六年 1859 から文久二年 1862(3年2ヶ月)龍郷潜居
半年後西郷再び遠島 徳之島に到着
3日後 愛加那 菊草(のち菊子)を産む
愛加那 徳之島の西郷を訪ねる
西郷沖ノ永良部島での遠島生活に入る
元治元年 1864 赦免 鹿児島に戻る
このとき、愛加那28歳 菊次郎4歳 菊草3歳
以来、愛加那は遂に西郷と再会することはなかった。
慶応元年(1865) 隆盛、糸子(鹿児島藩士岩山八郎太の次女)と結婚
明治2年 (1869) 鹿児島西郷本家に引き取られる。
菊草(菊子)は明治9年(1876)に同じく西郷本家に引き取られる。14歳
菊草は大山巌(いわお)の弟誠之助と結婚。経済的にめぐまれず苦労は絶えなかった。
子供4人 
明治38(1905)年 子供二人とともに京都の菊次郎のもとへ移り住む
菊草は龍郷で離れ離れになった母愛加那と、再び会うことはかなわなかった。
明治5年 (1872) 13歳でアメリカ留学
明治7年 (1874) 政府の財政難で帰国
明治10年 (1877) 17歳で 西南戦争に従軍し、右足膝下から切断の重傷を負う
東京では父隆盛の三弟で明治政府の重鎮 西郷従道(つぐみち)の世話になる。
明治13年 (1880)11年ぶり、龍郷で母と再会 なつかしい故郷の山々を見渡す。
明治18年 (1885)外務省書記生 アメリカ公使館勤務
明治20年 (1887)アメリカ留学 右足治療のため帰国
明治26年(1893)久子と結婚 十人の子宝に恵まれる
明治28年 (1895)台湾総督府参事官心得
日清戦争で日本が台湾を得たのは明治28年(1895)
明治28年 鹿児島から台湾への途次 名瀬で母と15年ぶり再会(当時の島司は笹森儀助(のち青森市長)菊次郎が生まれた龍郷の龍家本家跡近くに、笹森儀助島司 顕彰の碑がある。 県道81号 島のブルース歌碑の向かい側にある。
明治29年 (1896)台北県支庁長
明治30年(1897)台湾 宜蘭(ぎらん)庁長に就任(県知事に相当 4年半)
明治35年(1902)母 愛加那死去 1837年生 (65) (台湾で龍郷からの電報をうける)
明治37年(1904)京都市長に就任 1911年辞職
明治42年 (1908) 妹 菊子死去 1862生(46)
明治45年(1911~1920)島津家鉱業館長
昭和3年(1928)11/27 菊次郎 鹿児島で没 68歳
 
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放送のあった21日、台湾北東部・宜蘭(ぎらん)県蘇澳(そおう)
で特急列車が脱線し、少なくとも18人が死亡し、160人以上が負傷したというニュースがあった。。
 
菊次郎は
1895年(明治28年)- 台湾台北県基隆宜蘭支庁長に就任
1897年(明治30年)- 台湾宜蘭県宜蘭庁長官に就任
1904年(明治37年)10月12日 - 2代目京都市長に就任
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