マウスオン表 墓への坂道 後 北畠親房の墓の碑
大日川のおばさんに教えられた赤と黄色の道を求めて坂を登った。
途中で「北畠親房の墓」という案内板があり、導かれてたどり着いたところに、大きい、碑が立っていた。
思いがけなく、歴史上の人物と出会えたような驚きであった。
しかし、悲しいかな、この時代の歴史は高校時代の教科書的知識で、それもおぼろげなので、ネットでの検索が賢明と、調べてみた。
『1336年(延元1・建武3),尊氏により光明天皇が擁立されると,後醍醐天皇を吉野に迎え南朝を開き,北朝・幕府と対抗した。1338年(延元3・暦応1),東国を回復すべく義良親王に従って常陸小田城に入り,北軍と戦うが,結局は失敗して1343年(興国4・康永2),再び吉野へ戻り,南朝の中心となって活躍した。』
吉野の地に関わった部分の抜粋である。
マウスオン表 北畠親房の墓 後 二百十人塚
表の写真は3枚の写真を合成加工した。
お墓の前には、石の鳥居があり、その両脇に、この写真の両側にある「神皇正統」
「忠烈無比」の碑があったのだが、画面にうまく入らず、鳥居よりも、この二つを貫いた北畠親房の存在を認識して、お墓の脇に挿入した。
『しかし数ヶ月にして再び京都は北朝の手に落ち、天皇と共に吉野の奥の賀名生(あのう)に逃れた。正平九年(1354)四月十七日、六十二歳で薨去。墓は吉野郡西吉野村湯塩にある。顕家と共に、大阪の阿倍野神社に祀られている』
これは、今私が立っているこの地、賀名生(あのう)に関わった記述の部分をコピーした。
マウスオンの後ろの写真は、南朝擁護の志に燃えて戦い、壮烈な最期を遂げた郷土の忠臣210人の冥福を祈って建てられたものである。
さっと高校の日本史の学習で通り過ぎた歴史の一こまが、身近なものとして、さらに知りたいことが沢山あることに、わくわくする。
★よそに聞きあらましにせしみ吉野の岩のかけみち見ぬ隈(くま)ぞなき(李花集)
★かぎりなくとほくきぬらし秋霧の空にしほれて雁もなくなり(李花集)
新葉和歌集 秀歌選に収められている北畠親房の和歌であるが、吉野を詠った胸のうちが、ひしと伝わってくる思いで、紐解いている。