ある日の夕食の一場面です。
その日は、豚肉と豆腐があったので、「豚しゃぶ」にしようと思いました。
私は野菜や豆腐を切りました。
鍋に昆布と水を入れ、IHコンロに置きました。
鍋に野菜と豆腐と豚肉を入れてたきました。
マロニーちゃんを入れて、5分のタイマーをかけました。
ワカメを入れました。
我が家では、完成間近までキッチンのコンロで煮るのです。
後はタイマーが鳴るのを待つだけです。
スライスしたかぼちゃを、電子レンジの「ゆで根菜」でセットしました。
ふ~、やれやれ…と、私は椅子に座りました。
「ピピピピピ」と、タイマーが鳴りました。
私「鍋、できたから取ってきて」
彼は、キッチンのコンロから鍋を持って来て、テーブルの上のIHコンロに置きました。
「さぁ、ゆっくりといただきましょう」と、多分二人とも思ったと思います。
マロニーちゃんと野菜少々、豚肉一枚、豆腐を一口食べたところで、キッチンのコンロの上の照明が点いたままであることに私は気が付き、言いました。
私「あのライトを消してくれないと、電気代がもったいないわ」
彼「え、僕、点けてないよ。この家のルールは、点けた人が消すんじゃないの?」と、静かに言いました。
私「あそこまで調理したのは私なんだから、私が点けたのよね。
点けた人が消すのが基本だといつも私は言っているわ。
それはわかってる。
この場合、ワカメを入れたあの時点で、私がライトを消すべきだったと、あなたは言うのね?
まだ途中なのに…!!
このケースは、照明が要らなくなることに一番関わったあなたが消すべきだと私は思うわ!」と、叫びました。
この瞬間、私の食欲は消え失せました。
そして、お酒だけが私の夕食となりました。
私の場合、怒りはいとも簡単に空腹感を抑え込みます。
食事のメニューとして、私が「鍋」を選ぶときは、精神状態が悪くないということなのです。
一人鍋でない限り、鍋を食べるには、誰かと時間と空間を共にしなくてはいけません。
穏やかな気持ちで一緒にいられない人と「鍋」を食べるのは、私には苦痛です。
だから、私の心が荒んでいる時は、鍋は何週間も我が家の食卓には上がりませんん。
ずっと前、子どもだった頃の息子が言いました。
「今日も鍋かぁ…」
どんな思いで言ったのかは知りませんが、私にとっての「鍋」は、手抜き料理であるとともに、友好の証、平穏の象徴なのです。