2025年1月19日に開催された「第38回物流セミナー」の演題は「公慶上人・江戸時代の大仏復興」。
西山氏の講演を拝聴して、江戸時代前期に東大寺大仏の修復と大仏殿の再建に半生をささげた公慶上人は「とことんやる人!!」であったことがよくわかりました。
37歳から21年間の公慶の大仏復興のための行動力はすばらしいのですが、それにもまして、大仏様が安らかではない状態なのに自分だけ安臥して休むことなどできないと、大仏落慶供養の最終日までは座ったまま眠ったという逸話がすごい!!
帰宅して、私なりに調べてみました。
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743年(天平15年)、聖武天皇は紫香楽(しがらき)宮で盧舎那大仏造顕の詔を出された
749年(天平勝宝元年)10月に仏身が鋳造、751年には大仏殿も造営され、
749年(天平勝宝元年)10月に仏身が鋳造、751年には大仏殿も造営され、
752年4月には盛大な開眼供養会が執り行なわれた。
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855年(斉衡2年)、大地震により頭部が落ち、修復がなされた
1180年(治承4年)、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が灰燼に帰した
1181年(養和元年)、重源上人、勧進職に任じられた ※重源61歳
1180年(治承4年)、平重衡(たいらのしげひら)の兵火によって伽藍の大半が灰燼に帰した
1181年(養和元年)、重源上人、勧進職に任じられた ※重源61歳
1185年(文治元年)、大仏開眼供養 ※重源65歳
1195年(建久6年)、大仏殿落慶供養会 ※重源75歳
1195年(建久6年)、大仏殿落慶供養会 ※重源75歳
※重源(ちょうげん、保安2年(1121年)- 建永元年6月5日(1206年7月12日))
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1567年(永禄10年)、三好・松永の兵火で、大仏殿、戒壇堂、浄土堂、唐禅院、四聖坊などが焼失、大仏の頭部も溶けた
山田道安によって補修され、仮屋も建てられたが、やがて仮屋は大風で倒れ、100年近く風雨にさらされた
1684年(貞享元年)、江戸幕府に大仏殿修造を願って許され、1686年(同3年)から大仏鋳造に着手、仏頭と蓮弁18枚を補鋳 ※公慶37歳
1692年(元禄5年)3月8日~4月8日、大仏開眼供養 ※公慶45歳
1709年(宝永6年)、現在の大仏殿落慶供養会 ※公慶1705年58歳で逝去
山田道安によって補修され、仮屋も建てられたが、やがて仮屋は大風で倒れ、100年近く風雨にさらされた
1684年(貞享元年)、江戸幕府に大仏殿修造を願って許され、1686年(同3年)から大仏鋳造に着手、仏頭と蓮弁18枚を補鋳 ※公慶37歳
1692年(元禄5年)3月8日~4月8日、大仏開眼供養 ※公慶45歳
1709年(宝永6年)、現在の大仏殿落慶供養会 ※公慶1705年58歳で逝去
※公慶 慶安元年11月15日(1648年12月29日) - 宝永2年7月12日(1705年8月30日))
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東大寺があり、大仏さまがいらっしゃるから古都奈良は観光立県たりうる。
東大寺があり、大仏さまがいらっしゃるから古都奈良は観光立県たりうる。
もし東大寺と大仏さまがなかったら、奈良は古い都があった単なる田舎町で、世界中からインバウンドもそれほどやってこないだろう。
そう考えると、大仏創設の聖武天皇、行基、大仏再興に半生を捧げた、鎌倉時代の重源と江戸時代の公慶に、奈良県民はもっともっと敬意を表すべきなのかもしれません。
★寄進についての考え方が、御三方、同じです。
小さな力の結集で創りあげようとしています。
聖武天皇 一本の草、一握りの土
重源 尺布寸鉄
公慶 一針一草
重源 尺布寸鉄
公慶 一針一草