2025年1月19日のセミナーで、私が理解した公慶のことを以下に記します。
1648年 公慶誕生
1660年 12月9日 公慶、学僧として東大寺に入った 13歳
1660年 12月15日 公慶、大仏を拝し、再興を志した
※大仏さまは、木で作り銅板を張った仮のお顔である
※自分は傘をさしているが、大仏さまは雨に濡れている
1684年 公慶、幕府に大仏殿再興のため諸国勧進の許可を乞う
寄進についての公慶の考え方 一針一草
大仏修復勧進帳 5文=125円
大仏修復には、1万2千両=12億円 7年間かかった
1692年元禄5年 3月8日~4月8日 大仏開眼会
1684年 公慶、幕府に大仏殿再興のため諸国勧進の許可を乞う
寄進についての公慶の考え方 一針一草
大仏修復勧進帳 5文=125円
大仏修復には、1万2千両=12億円 7年間かかった
1692年元禄5年 3月8日~4月8日 大仏開眼会
※大仏殿の焼失は1567年10月10日だったから、大仏再興まで120余年もかかった
大仏開眼会には数十万人がやって来た
※当時の奈良の人口は5万8千人だった
斎(とき)を受けた人の数 僧 1万人 俗人20万人
1692年3月8日には10万人が参詣
1692年3月27日は4万9千54人が奈良で泊まった
大仏開眼会には数十万人がやって来た
※当時の奈良の人口は5万8千人だった
斎(とき)を受けた人の数 僧 1万人 俗人20万人
1692年3月8日には10万人が参詣
1692年3月27日は4万9千54人が奈良で泊まった
※奈良奉行所は民泊に「OK」を出した
※奈良奉行所の跡には、奈良女子大学が建っている
大仏参詣の後は猿沢池へ行き、コイやフナにエサをあげたが、魚は空腹ではなく浮き上がってこなかった
猿沢池辺りの店は1000万円儲けた
唐招提寺薬師寺春日社興福寺西大寺等もおおいに儲けた
高麗橋から奈良へ、人の切れ目なし
心利く公慶は、施薬所(60人の医師待機)、迷子センターを設置した
南大門の横には芝居小屋・珍獣
1691年 京都へ勧進に行き、京都の町のあらゆる道を歩いた (京大絵図)
大仏参詣の後は猿沢池へ行き、コイやフナにエサをあげたが、魚は空腹ではなく浮き上がってこなかった
猿沢池辺りの店は1000万円儲けた
唐招提寺薬師寺春日社興福寺西大寺等もおおいに儲けた
高麗橋から奈良へ、人の切れ目なし
心利く公慶は、施薬所(60人の医師待機)、迷子センターを設置した
南大門の横には芝居小屋・珍獣
1691年 京都へ勧進に行き、京都の町のあらゆる道を歩いた (京大絵図)
1686年から1692年4月8日(大仏開眼会の最終日)までの7年間、公慶は安臥せず、座って眠った
1692年元禄5年4月9日に、公慶はやっと横になって眠った
その後しばらく病む
1692年6月7日回復
全国の人は一律に12銭300円奉加した ※奈良奉行所が管理
大仏殿再建 18万両=18億円 後に大仏殿の規模を縮小して10万両に
1692年10月 江戸に勧進所を建てた
1693年2月、隆光の仲介で、将軍徳川綱吉、綱吉の母桂昌院に会った
1694年5月~10月 中国九州へ勧進に
1694年8月長崎から江戸へ 柳沢吉保、大名衆への奉加にOKを出した
1699年8月~1700年12月 奥州へ
※奥州津軽の勧進帳が興福院(公慶の姉が尼僧)の茶室長闇堂の天井に貼ってある
1699年 大仏殿、7間×7間に縮小 10万両=100億円に縮小
1701年、公儀御普請(公共事業)になった
御領5万両 私領5万両
1699年元禄12年入札 用材 26,723本
3000トンの瓦の屋根を支えるためには、大虹梁が2本必要である
1702年、日向国、霧島の白鳥神社に赤松の巨木2本あり
18丈 54メートル
1694年5月~10月 中国九州へ勧進に
1694年8月長崎から江戸へ 柳沢吉保、大名衆への奉加にOKを出した
1699年8月~1700年12月 奥州へ
※奥州津軽の勧進帳が興福院(公慶の姉が尼僧)の茶室長闇堂の天井に貼ってある
1699年 大仏殿、7間×7間に縮小 10万両=100億円に縮小
1701年、公儀御普請(公共事業)になった
御領5万両 私領5万両
1699年元禄12年入札 用材 26,723本
3000トンの瓦の屋根を支えるためには、大虹梁が2本必要である
1702年、日向国、霧島の白鳥神社に赤松の巨木2本あり
18丈 54メートル
白鳥神社から鹿児島湾へ
筏に組み、船6艘で引く
6月20日 鹿児島発
6月21日 山川着
7月5日 山川発
九州の東側の海は荒く、筏ではダメなので、船に積むことになった
志布志の廻船問屋山下さんが請け負った
どうやって奈良まで運ぶか
二本の巨木を同時に船に積むにはどうしたらよいのか
満潮時に千石船を沈める、巨木を船の上に載せる、干潮時に二艘の五万石船でゆっくり千石船を引き上げ、水を汲み出し、2本の巨木を固定するという方法をとった
淀川
木津川
1702年 公慶55歳 弟子 公盛14歳 ※公盛は後に中門を造った
※公俊は後に西回廊を造った人
※庸訓は後に東回廊を造った人
1704年8月19日~9月5日 寄進ひき 毎日千数百人がひいた
木津で陸揚げされた巨木は、1704年9月5日に奈良へ到着
1705年 大仏殿上棟式
1705年 幕府に御礼を言うために江戸へ行った(18回目)が、江戸で客死
1705年7月12日 公慶没 58歳 ※37歳から21年間捧げた
辛労相積(あいつもる)の故か
公慶の墓は五劫院にある
宝永6年1709年3月21日~4月 日 大仏殿落慶
公慶33回忌に、中門回廊のある大仏殿が完成した
※庸訓は後に東回廊を造った人
1704年8月19日~9月5日 寄進ひき 毎日千数百人がひいた
木津で陸揚げされた巨木は、1704年9月5日に奈良へ到着
1705年 大仏殿上棟式
1705年 幕府に御礼を言うために江戸へ行った(18回目)が、江戸で客死
1705年7月12日 公慶没 58歳 ※37歳から21年間捧げた
辛労相積(あいつもる)の故か
公慶の墓は五劫院にある
宝永6年1709年3月21日~4月 日 大仏殿落慶
公慶33回忌に、中門回廊のある大仏殿が完成した
公慶上人坐像
公慶上人の左眼の白目が赤くなっているそうです。
「辛労相積(あいつもる)の故か」です。
37歳から亡くなる58歳までの21年。
半生を東大寺大仏と大仏殿再興に捧げた生きざまはすごいとしか言いようがありません。