孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

南アフリカ  アパルトヘイトへの抵抗「ソウェト蜂起」を象徴するヘクター・ピーターソン

2023-10-15 06:00:43 | アフリカ
(抱きかかえられているのが警官に射殺された13歳のヘクター・ピーターソン 隣で泣き叫んでいるのが彼の姉 ソウェト蜂起を象徴する写真です。)

現在、南アフリカとジンバブエのヴィクトリアの滝などを観光しています。
そのなかで訪れたのが、南アフリカ・ヨハネスブルグのソウェト地区 にある「ヘクター・ピーターソン博物館」

ヘクター・ピーターソンという人物は、アパルトヘイト体制下で1976年に起きた「ソウェト蜂起」で、警官によって13歳の若さで射殺された少年で、アパルトヘイト体制への抵抗運動の最初の犠牲者となった人物です。

1976年の「ソウェト蜂起」・・・リアルタイムでTVなどで見聞きしたはずですが、記憶がありません。

****ソウェト蜂起****
1976年6月16日に南アフリカ共和国トランスヴァール州(現在のハウテン州)ヨハネスブルグ南東部のソウェト地区で発生したアフリカ系住民による暴動事件である。

背景
1976年、アパルトヘイト政策を敷く南アフリカ政府は、学校でアフリカーンス語の授業の導入を決定。アフリカーンス語を「白人支配の象徴」と見なす黒人、特に学生達の間に激しい反発が起こり、数週間に亘って黒人学生が授業をボイコットする事態に発展していった。【ウィキペディア】
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アフリカース語とはざっくり言えば、オランダ系白人(アフリカーナー)が使用して言語です

オランダ系白人は、その後に進出したイギリスによって駆逐され北部に追いやられていきます。

結果、南アの支配構造は、金とダイアモンドの採掘権を握ったイギリス系白人を頂点として、その下にオランダ系アフリカーナ、その下に有色のカラード、底辺に黒人がおかれることになります。

ただ、首相を出して南ア共和国政府を主導したのはアフリカーナーで、黒人居住区と白人居住区を分ける人種隔離政策(アパルトヘイト)を始めたのもアフリカーナー政権です。

*****アフリカース語 アフリカーナー****
アフリカーナー(アフリカーンス語)は、アフリカ南部に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、信教の自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団である。現在の南アフリカ共和国やナミビアに多く住んでいる。

言語はオランダ語を基礎にして現地の言語等を融合して形成されたゲルマン系言語であるアフリカーンス語を母語とする。(中略)

南アフリカ共和国の白人(2009年の推計で国民の9.1%を占めている)は、イギリス系が19世紀末から現在に至るまで金とダイヤモンドの鉱山経営によって経済面で主導的立場を担ってきたのに対し、アフリカーナーは基本的に農民として暮らす人が多かった。(中略)

南アフリカ連邦期(1910年-1961年)
1910年の南アフリカ連邦成立後、アフリカーナーは政治面で主導的立場を次第に奪われたが、連邦時代56年間の首相7人の内6人はアフリカーナー出身であった。(中略)

また、1925年にはアフリカーンス語がそれまで英語と共に公用語だったオランダ語に替わって、南アフリカ連邦の公用語となっている。

アフリカーナー・ナショナリズムの担い手は、イギリス系白人と対抗関係の中で、アフリカーンス語を話す白人の文化的、経済的後進性を自覚した聖職者、教師、知識人、実業家などであった。

(中略)戦後の1948年にアフリカーナーを支持母体とする国民党が政権を握り、それ以後、名目的な「分離発展」をうたいながら、国際連合が「人類に対する犯罪」と呼んだアパルトヘイト(「分離」という意味のアフリカーンス語)制度を強力に推進していった。

それは、経済面でイギリス系に対して劣位に置かれたアフリカーナーが政治、警察、軍隊といった公権力を奪回することでもあった。(中略)

1958年に連邦首相に就任したヘンドリック・フルウールトは熱烈なアフリカーナー・ナショナリストであると同時に共和主義者であり、1961年に南アフリカはイギリス連邦から離脱し、共和制を採用する南アフリカ共和国となった。

南アフリカ共和国成立以後(1961年 - )
南アフリカ共和国のアパルトヘイト体制はイギリス人や他のヨーロッパ系白人をも最優遇する制度であり、少数民族である白人政権は、国外からの白人移民を奨励し、ポルトガル人などが流入した。

他の人種は当初は参政権もなく、印僑→カラード(マレー人、コイコイ人を含める)→黒人の順に、職業・教育・結婚・居住などあらゆる面で、法の下の不平等によって搾取された。最底辺に位置づけられた黒人は、最後まで参政権もなく、土地条件の良くないバントゥースタン諸国(かつて南アフリカ共和国に存在した自治区および「独立国」。南アフリカ政府によってホームランドと呼ばれた。) に縛り付けられたり、或いは生まれた土地から強制的に立ち退きを余儀なくされるなどした。

脱植民地化が進む時代に逆行するアパルトヘイト体制は、国際社会から問題視されていたが、この制度によって経済的に利益を得たのは、この時代に生きた南アフリカの白人だけではなく、豊かな鉱山資源を安価な黒人労働力で採掘できた日本を含む西側諸国の資本と、それと結びついた関連企業も含まれていた 。【ウィキペディア】
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当時日本人が南アで「名誉白人」と称され、有色ながらも白人並みに待遇されていたのは記憶にあります。

そしてソウェト蜂起、その象徴となったのがヘクター・ピーターソンの死でした。

****ソウェト蜂起 子供たちの信頼を失った日****
1976 年 6 月 16 日、ヨハネスブルグのソウェト地区で、推定 20,000 人もの子供たちが学校から通りに繰り出しました。

地元の学校でのアフリカーンス語の強制に対する抗議の声を上げるためです。アフリカーンス語は、圧政者の言語であると多くの人にみなされていました。

1974 年のアフリカーンス語中間法令では、すべての黒人の学校で、アフリカーンス語と英語を半々に使用して教えることを強制していました。

6 月 16 日、ソウェト学生代表評議会(SSRC)の行動委員会の主催で、オーランド スタジアムに学生たちが集まりました。行動委員会が統制を強調したので、平和的な抗議行動と考えられ、多くの教師も支援しました。

行進が始まると、学生たちは「アフリカーンス語反対」、「アザニア万歳」、「学生にアフリカーンス語を学べと言うなら、フォルスター首相がズールー語を学べ」といったスローガンを掲げて歩きました。


行進のルートを警察が封鎖していました。行動委員会は学生たちに警察を刺激しないように促して、別のルートで行進を続け、オーランド高等学校の近くまで進みました。

警察が群衆に向かって放した犬を、群衆が石で打ち殺して対抗し、学生と警察の間での衝突は収拾がつかなくなりました。そして、警察が子供たちに発砲を開始しました。その日のうちに 176 人が殺されました。抗議はすぐに国中の地区に広がりました。

ヘクター・ピーターソン(13)は、ソウェト蜂起時にアパルトヘイト警察によって射殺された最初の子供たちの 1 人であり、ブイサ・マクボに抱えられて運ばれる彼の写真は、この日の象徴的な画像となりました。写真は報道写真家、サム・エンジマが撮影しました。

ソウェトのヘクター・ピーターソン博物館。ソウェト暴動は、今ではソウェト蜂起として知られており、南アフリカ内外でのアパルトヘイトへの抗議運動が盛り上がるきっかけとなりました。【Africa Media Online】
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アパルトヘイトを主導したのがアフリカーナー政権であったという事情もありますが、イギリス系白人・英語が批判の矢面に立っていないあたりに、イギリスの植民地支配体制の狡猾さがあるのかも。
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