あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

千早赤坂村に残る楠木一族の南朝史跡

2011-01-14 11:06:43 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

                     

                          写真:上赤坂城址から金剛山方面を望む

 

 後醍醐天皇が興(おこ)した南朝、それに続く後南朝の勢力や史跡は、奈良県だけでなく京都府や大阪府など広範囲に及んでいます。

 

  

 楠木正成(くすのきまさしげ)は、後醍醐天皇が元弘の乱を起こし、建武の中興へと続く時期、つまり勢力絶頂期に活躍した有名武将です。とはいえ実際にはおよそ6年間の史実しか残っていないようですが・・・。正成が生まれ育ち、本拠としたのが大阪府千早赤坂村で、ここには多くの山城の城跡が残っています。

 

 

 ※元弘の乱:元弘元年(1331)に倒幕の謀(はかりごと)が漏れ、身辺の危機を感じた後醍醐天皇が密かに京都の内裏を出て、南都(東大寺⇒笠置山)に向ったことから始まる。

 

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最も冷え込んだ12日、お天気は良かったので「昼間なら山や峠も大丈夫だろう」と久々写真撮影に出かけました。葛城市や<st1:MSNCTYST Address="御所市" AddressList="29:奈良県御所市;" w:st="on">御所市</st1:MSNCTYST>を走る山麓線の「長柄」からR309の水越トンネルを超えると千早赤坂村です。

 

 

<o:p>写真左:落ち葉で埋まる道</o:p>

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 写真下:登り口にある石仏の落ち葉ははらわれています。

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 トンネルを出て、まず一番近い場所にある「上赤坂城址(かみあかさかじょうし)」に向います。田んぼに囲まれた場所に案内板があり、「本丸まで20分」とあります。なにしろ寒いためか昼間でも人っ子ひとりいないので、ちょっと怖いです~。

 

 

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登り口は狭いうえにかなり急坂で、濡れた落ち葉で覆われていました。山城らしく曲がり角や狭い場所(門の跡)があって、人や馬が簡単には通れない仕組みになっているようです。ほどなく頂上に到着!「千畳敷」と書いてありますが、意外に狭い場所です。以前はもっと広かったのかな? 中央には石碑が(寂しく)建っていて、なにより眺めに満足!

  

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次に「一番小さい道の駅」と呼ばれる「千早赤坂 道の駅」の裏側にある「楠木正成誕生の地 石碑」、そして道路を隔てた反対側にある「楠公産湯の井戸」にも寄って見ました。産湯の井戸はりっぱに整備され、まるで露天風呂のようですが、井戸の水は枯れています。(写真下)

 

 

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「道の駅」を通り越し、千早赤坂中学校の裏手にあるのが「下赤坂城址」です。でもここにも石積みの城址などはなく、一本の石碑が立っているだけ。お城は石造りではなく、木造りだったのでしょうか? 案内板にも「・・・にわか造りのためにあえなく落城・・・」とあります。

 

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一番行きたかった千早城址を探し、地図に従って金剛山方面に登り始めましたが、見当たらないばかりか雪が多くなってきました。どうやら千早城址とお寺は金剛山頂付近にあり、通行禁止となっているようです。暖かくなるまでおあずけです。

 

 

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これらの山城について「吉野仙境の歴史」(前園美智雄ら編、2004、文英堂)にはこう書いています。「元弘二年二月には楠木正成が河内の上赤坂城で再挙、八月には千早城に拠った(あいよっこ注:落城により後退した)。

 

 

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<o:p>  写真下:下赤坂城址からはすばらしい棚田の光景が。</o:p>

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 千早城は葛城修験の霊山である金剛山の山腹に所在し、金剛山に営まれた城と言って良い。河内の楠木正成と吉野の護良親王(もりながしんのう)との連携の背後に金剛山寺(転法輪寺:てんぽうりんじ)及び金峯山寺があり、それに属す修験の存在を推測するのはたやすい。

また、金剛山の大和側の山麓である高天(たかま:<st1:MSNCTYST Address="御所市" AddressList="29:奈良県御所市;" w:st="on">御所市</st1:MSNCTYST>)を本拠としたらしい高間行秀(たかまゆきひで)ら大和武士の宮方としての転戦も知られる」

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実は楠木正成は後醍醐天<o:p></o:p>皇本人というより、皇子の護良親王とのつながりが強かったようです。そして葛城山・金剛山で隔てられているとはいえ、宮方支援の連携・交流はとても密接に行われていたのですね。<o:p></o:p>

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