あいよっこの旅ログ:::Part2:::

「女性のひとり旅は冒険の始まり!」

敵でも苦境にあれば『守る、思いやる、助ける』という美徳

2010-03-25 16:09:42 | *南朝から後南朝の舞台に思いめぐらせ*吉

  

 

                  写真:まさに今、「南天屋敷」(当主のお話)の堀家住宅

 

   南の島から帰ってみると、奈良は震えるような寒さでした!!  今回は神戸空港発着便だったのですが、神戸と較べても圧倒的な寒さです。南の島というのは、気象庁の天気情報でお馴染みの南大東島。このモニターツアーの顛末は、現在進行中の『西吉野をゆくツアー』を今回で一端終了したあとレポートします。最近どうやら(断然楽しい)旅のほうが先行し、(ちょっと面倒な)ブログ報告は遅れ遅れになっておりますね~。(反省)

 

 

<o:p>  写真左:玄関を入ると左手に台所、右手に部屋が続いています。</o:p>

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  後醍醐天皇ゆかりの堀家住宅(賀名生皇居跡)の当主、堀元夫さんの話が続きます。<o:p></o:p>

「現在の建物は室町時代後期のものらしく、太平記によると(南朝)当時は板葺きの2階建てで、1階は家来や御付の者達の場所、2階が居住区だった。一間を六尺六寸とした広い造りで、金閣寺などと同じ造りです」と説明します。

 

 

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  かの豊臣秀吉でさえ特別計らいをしたのが、今も残っている台所。「7つのかまどは『検地・刀狩り』などでは禁止だったが、『天皇家によく忠節を尽くした』ということでお目こぼしされた」のです。

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 写真右:特別な計らいで残った台所の7つのかまど。

 

 

  後醍醐天皇ゆかりの物語を巡りながら、あいよっこが疑問に思うのは「天皇はじめとする重要人物が『逃れたり、隠れたり』するのは、なぜ吉野(奈良県南部)だったのだろう?」ということでした。「吉野山の地形が守るに易く、攻めるに難い」とは言われますが、それだけなのでしょうか?

 

 

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 「歴史の転換点に吉野は必ずクローズアップされています。地勢学的には他の地域でも良いはずですが・・・」と言いながら、堀さんはひとつの考えとしてこう話しました。「この地域では米がとれないので、税を納めるには『労役』、つまり警護や労務に着く必要がありました。男たちは山育ちなので身体が強く、兵としても重宝されたでしょう」。

 

 

<o:p> 写真左:堀家に伝わる日本最古の日の丸は、後醍醐天皇から下賜(かし)されたと伝わる。歴史民族資料館で保管。</o:p>

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「また吉野は役の行者に始まる『修験道』も盛んで、多くの僧や芸能関係者が全国を巡り、情報も入手しやすかったという環境があります。『やんごとなき人を守る』『逃げ込まれたら助ける』という考え方も強いのです」 納得のいく説明に、ハタと膝を打ちたい気分になりました。「な~るほど!」

 

 

写真右:楠木正行(まさつら)が陣鐘とした鐘も貴重なもの。歴史民族資料館で保管。

 

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  さらにミステリーは続きます。堀家が倒幕のさきがけであった天誅組を迎え入れて、守ったことも有名です。堀さんは「幕府から見ると天誅組はいわばテロリスト集団。だけど時の孝明天皇は自分が使っていた机を、『迷惑を掛けた』と堀家に贈られたことは不思議なことです」と話します。つまり功労を認めていたということなのでしょう。

 

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    「敵に塩を贈る」というのは上杉謙信が戦いの敵であり塩不足に陥った武田信玄に「塩を贈って助けた」ことから生まれたことわざです。相手が苦境に陥ったときに「思いやる、助ける。守る」という精神は戦国時代にあっても美徳であったのでしょう。

 

 

  今では「そんなことをするのはバカ」といった意味で使われることが多いようです。また現代の戦いは徹底的に相手を打ち負かし、破壊することです。失われつつある(失われてしまった?)良きもの、美しいものを感じました。 

 

写真;玄関脇には時節のおひなさまが。<o:p></o:p>


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2 コメント

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Unknown (神戸 後醍醐天皇行在所)
2010-05-25 07:45:30
神戸市兵庫区門口町の福厳寺〔臨済宗 南禅寺派 別格地〕は後醍醐天皇の史跡として有名です。
また神戸の港の歴史においても重要な地位をしめます。境内には塔頭二ヶ寺、起雲庵、常牧庵がありましたが、明治後合併廃寺されましたが、名目的に方丈〔内殿〕は起雲庵と言う事になりました。また和田〔和田岬〕にあった尼寺、円通寺〔円通庵〕も現在は福厳寺に合併されています。
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Unknown (あいよっこ)
2010-05-25 19:02:54
神戸さん 
情報コメントありがとうございました。南朝遺跡やゆかりの寺社が日本全国に残っていることに驚きます。
日本史の上でも南朝時代の人々の往来がとても盛んであった、と書いているようようで、ある意味エネルギッシュな時代だったのですね。福厳寺には一度行って、またブログで報告したいです。
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