母の自分史『楽天的♪ ふじたばあちゃん~被爆者の救護活動を経て~』<o:p></o:p>
のなかから「戦争と被爆者救護」に関する部分を抜粋して紹介します。
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(∫10) 【そしてついに終戦】
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救護の現場では、いわゆる玉音放送(※天皇陛下がラジオで「終戦」を宣言された放送)を聞いた人は少ないと思います。私たちは飛行機からばら撒かれたビラで終戦を知りました。 <o:p></o:p>
周囲には油を採るためのヒマワリ畑があったのですが、ビラを見たある将校は軍刀を振り回し、狂ったように花をなぎ倒していました。私は「戦争が終わって本当に良かった」とほっとする想いでしたが、それまで勝利を信じていた人たちにとって、敗戦は受け入れがたいことだったのでしょう。
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大きな被害を出した爆弾は直後から「ピカドン」と呼ばれ、当時「ピカドンのせいでもうここには何十年も住めない、もう木が生えない。変な子どもが産まれる」などの噂が立ちました。「爆弾の正体が原爆だった」という事実を知ったのはかなり後のことです。
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救護隊の中では私を含め、高熱が出たり、お腹の調子が悪くなり、下痢などの症状になったりする人が多くいました。でも不思議なくらい「自分自身も被爆した」という意識がなかったのは、自分は救護する立場だったこと、そしてどこか楽天的だったのかなとも思います。
私たちはおよそ2週間の救護活動のあと岡山に帰りました。
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(∫11) 【看護婦生徒を辞めて郷里に戻る】
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岡山に戻ってもたくさんの戦傷者や被爆者、そしてご遺体が岡山陸軍病院に運ばれてきました。霊安室では研修を兼ねた解剖助手の仕事がありました。人手が足りないので、即効的に看護の学問を学ぶことが必要だったのです。
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まだ初心者のうえにもともと怖がりだった私は、解剖を正視することができず、ずっと眼をつぶってうつむいていました。「おい、そこ、ちゃんと見ろ! これはどこか?」という軍医の声に固まって答えられず、「見れんのなら、出て行け!」とどなられたこともありました。
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終戦となり、「陸軍病院は進駐軍に接収される(強制的に取上げられる)」という話が出ました。そのためこの時期に病院を辞めていく人も多くなりました。
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戦時中に夫と長女を亡くし、さらに敗戦のショックで母は気弱になっていました。また私の結婚を心配していたこともあり「病院看護婦を辞めるように」と言いました。<o:p></o:p>
私は看護婦の仕事は怖いけれども大好きで、上司も正式の資格受験を勧めてくれましたが、家庭の事情もありやむなく郷里に戻りました。
***続く***