プライバシーなる言葉を口にしだしたのは何時の頃だったでしょう。少なくとも私 の子供の頃にはまだありませんでした。というか知らなかっただけという噂もありますが、それほど騒がれていいな かったのは確かだと思います。
それが証拠に、隣近所の人達で知らない人はいませんでしたし、おじさん、おばさんたちは私たち子供に何 時も目を光らせてくれていました。
それがプライバシーなるものに影響されて他人の干渉を煩わしいものだと感じるようになってしまったのは 私だけではないでしょう。今や、近所にどんな人が住んでいて、そこの子供はどうなのかも全く知らない状態 で、その煩わしさのなさに満足している気がついて愕然としたこともありますが、今さらそれを変えようともし ない自分がいます。完全に戦後教育に洗脳されたのかもしれません。果たしてそれが良いのか悪いのかと言えば 一概には言えないところもありますが、やはりもう一度見直すことも必要な時が来ているのじゃないでしょう か。
それは、昨日も触れた鎖国にも関係してくるかもしれません。最近はネットのお陰で昔の日本もある程度は 知ることができるようになり、もしかしたら、昔の日本人の方が、今の生活には恵まれているが根本的には不幸 なのじゃないかと思えるときがあります。
そんなことを思わせる話題が何時ものネット巡回でありました。
草莽崛起ーPRIDE OF JAPANより 2013/03/17
・・略
異教徒でありながら、実に優れた文化を持った国。
ザビエルは、そう評価しているのです。
そしてその「最高の評価」が与えられた日本は、なんと戦 国時代の日本です。
これはいったいどういうことなのでしょうか。
是非、みなさまには、このことの意味を考えていただきた いのです。
もし、みなさんがザビエルの立場にある宣教師だったとし て、いまの日本を見たとき、みなさんは、いまの日本に、ザビエルと同等の評価をするでしょうか。
もし「しない」のであれば、それは世が荒れたと言われる 戦国時代よりも、いまの日本のほうが、よほど民衆の心が荒んでいるということになる。
実際には、最近発見された戦国時代の日記などの記録 をみると、後世の我々が「戦国時代」と名付けた時代も江戸時代も、日本人の心はまるで変わっていないことに驚か されます。
つまり、日本人は、戦国期においても、文化が円熟したと される江戸期においても、同様に勤勉で真面目で、人を大事にし、ひとりひとりが自らの成長に励み、人々が互いに 助け合い、たとえ貧しくても立派に生きることを選択した、非常に民度の高い国民だったと言うことがわかります。
・・・中略
モースは、明治19年にも 「Japanese Homes and their Surroundings」という本を書いています。
そこには、次の記述があります。
レインをはじめ文筆家たちは「日本の住居にはプライバシーが欠けている」と述べてい る。
しかし彼らは、プライバシーは野蛮で不作法な人々の間でのみ必要なことを忘れてい る。…以下略
これは意表を突かれました。プライバシーが野蛮で無作法な人々の間でのみ必要と は考えもしませんでした。やはり我々の先祖は凄い世界を築きあげていたのかもしれません。
何となく、物質に恵まれた良い時代に生まれたことに感謝しながらもどこかに違和感があるのはこうした時 代を捨ててしまったことが先祖から受け継いだ感性の中に残っているからなのかもしれません。お金を稼ぐこと より自分を磨くことに喜びを感じる感性をもう一度取り戻したい気がします。
かなり難しそう!