ある本を読んでいて、理系の考え方という言葉が気になっている。そこで、理系と文系について考えてみる。そもそも、この言葉に出くわしたのは、高校時代。大学受験する際にどちらかの選択があり、それによって、勉強する科目が決まる。自分にとっては、どちらの選択が正しいのか、よくわからないまま、数学が苦手だから文系。そうでないなら理系なんて、軽く考えて決めるのが多い。それ以来、入学・就職においてもその選択が左右される。社会に出れば、あの人は理系だからと考え方や性格、そして役割の判断にまで使われていることもある。しかし、人生を長くやっていると、そうでもなく、血液型みたいに、勝手に人が決めつけ、納得しているようなものである。論理性は、数学よりも国語が勝っている。話す言葉ほど、筋道論理立てて話すべきものであり、そうしないから多くの問題が起こる。ただ、話が通じなければそれをフォローするチャンスは会話で可能である。それも怠るから、より問題は大きくなる。文学芸術においても、文系が勝っているとは限らない。この世で成果を上げ評価される人物に、文系が多いからそういわれるだけである。語りものを書くにも、理系にも優れた人はいる。緻密に精巧に考え動こうとするには、その人の思考プロセスの問題であり、デジタルとか科学的だとかはあまり問題ではない。高校生活と同時に、理系文系を意識するのではなく、もっとおおらかに、勉学を楽しむ世界をもたらすことが必要ではないかと思う。そのための教育カリキュラムや教える立場の人材こそ、変革すべきものである。