20日㈬午後、京都府の藤岡栄自然環境保全課長が奥上林の国宝・仁王門のところに京都府が整備予定のトイレや休憩所の現地視察に来られるというので同行した。案内は綾部市の職員さん達にお世話になった。
休憩所は市管理の林道沿いに設置し、仁王門と雲海を合わせて観ることができ、良い写真撮影のポイントにもなるのではないかと考えている。
仁王門のある光明寺はウィキペディアには次のように記載されている。
『君尾山略記』には、推古天皇7年(599年)、聖徳太子による開創と伝える。
その後白鳳元年(673年)、役小角が修験道の道場とし、延喜年間(10世紀初)、醍醐寺開祖の聖宝(理源大師)により真言密教の道場として中興されたという。最盛期には山上山下に72坊を有したと伝える。
現存する二王門は、棟札の記載によれば仁治3年(1242年)から建長5年(1253年)にかけて建立されたものである。棟札によれば、門の再興には延暦寺西塔院の僧・覚承が関わっており、この頃は天台系寺院であったことが伺われる。
大栄7年(1527年)11月、大栄の乱(赤井の乱とも)の兵火を受けて本堂、三重塔、法華堂、常行堂、鎮守拝殿、行者堂、鐘楼、坊舎を焼失した。
寺に残る再興勧進帳により、天文2年(1533年)以後、地元の有力者である上林氏により伽藍が再建されるが、元亀3年1572年と天正7年(1579年)に明智光秀の焼き討ちにあい再び焼失。
江戸時代には領主藤掛氏の庇護を受けたが、寺勢は衰退した。享保18年1733年には山下の23坊が焼失している。現存する本堂の再建は天保7年(1836年)である。
明治時代初頭には山上に残っていた4坊がなくなり、寺勢はさらに衰退した。
大正3年(1914年)、庫裏、方丈、客殿を焼失し、同5年(1916年)に庫裏が再建されている。
聖徳太子のゆかりのある歴史ある寺院であるが、本来、修験道場であったため、檀家がほとんどおられないので、地域の皆さんで守っておられる。例に漏れず、ここも高齢化と人口減少で護持に苦労しておられる。
本堂にはたまたま梅林住職、奥上林地区の熊内久志連長が来ておられて、京都府立大学の先生を案内しておられた。府立大学には光明寺や奥上林の歴史調査をしていただくことになっており、その最初の調査に入られたということだった。
熊内連長に現地を案内していただき、地元からの要望も伝えていただいた。
トイレの建設予定地は庫裏の下にあって、市の老朽施設が建っており、現在、取り壊し作業が行われていた。トイレ建設後の管理について、清潔さを保全するためには虫や動物が入り込まないような対策が必要ではないかと意見を言った。
トイレ予定地から少し下りると修復作業中の仁王門がある。今年いっぱいくらいで3年がかりの修復が完成するそうだ。
現地を見て、これまでに要望されていたことの意味などがよく分かった。