現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

熊沢天皇

2010-06-19 22:25:07 | 社会問題
相撲の不祥事から明治天皇の出自にまで飛躍して
しまった。明治天皇は、長州萩に匿われていた南朝の
末裔 大室寅之祐 だという話だ。

昨今、若いもんに「南朝だ北朝だ」と言っても、サッパリ
通じない。教科書も「南北朝時代」は「吉野朝時代」と
書き換えられているそうな。

さて、南朝の末裔と称する系統は、他にもあったようだ。
水戸光圀が「大日本史」を編纂し、「南朝こそ正当」と
する論に火を付けたのだが、その水戸藩は、やはり「南朝の
末裔」と称する「熊沢天皇」を 擁護していたのだ。

私の子供の頃、すぐ近くに「熊沢天皇」の家があった。
薄暗く、しんき臭い家だった。熊沢天皇こと熊沢寛道は
名古屋で雑貨商を営んでいた。戦災で焼け出され、戦後
東京に出た。そして、言論の自由の風潮の中「われこそは
南朝の正当の天皇である」と名乗り出て一躍有名になった。

しかし晩年は周囲も家族からも見放され、昭和41年
ひっそりと亡くなった。熊沢天皇の他にも、「我こそは」
という自称天皇は何人も出てきたらしいが、世間の目は
冷ややかだった。


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描きかえられた孝明天皇の肖像

2010-06-19 07:16:41 | 会津藩のこと
ネットで検索してみると、いろいろな情報がある。
明治天皇は写真がお嫌いだった。明治天皇の写真は
即位してまもない若い頃のものと、最晩年に福岡県
八女での軍事演習の際、遠くから横顔を隠し撮りした
ものしかないそうだ。よく目にする有名な肖像は、
キヨソネに描かせた絵を写真で撮ったものという。

明治天皇の父君 孝明天皇の肖像画についても「孝明
天皇の肖像画は描き変えられていた」というブログを
発見した。

広く知られている孝明天皇の肖像画と、若い時の明治
天皇の写真は、下唇が厚く、そっくりである。これを
見れば、誰もが「明治天皇は正しく孝明天皇の実子」と
思う。「明治天皇替え玉説」は否定される。

しかし、あまりにもそっくりなところが、逆に怪しい。
先のブログも、私と同意見で、詳細に調べた結果、なんと、
明治天皇をモデルに描かれたもの。さらに、全く違う顔の
肖像画もあったが、それさえ、「唇を明治天皇に似せて、
後で修正されている」というのだ。
なぜそこまでする必要があったのか。

明治天皇は写真嫌いで「写真を撮られることを嫌った」と
いうことと、孝明天皇の肖像画が、「明治天皇に似せて
描き直されている」という点からも「明治天皇は孝明天皇
の御子ではない」という説が、真実味を増してくるのである。

明治天皇はすり替えられた

2010-06-19 03:49:38 | 会津藩のこと
「大相撲の危機」から、明治天皇の出生の秘密にまで、
話が飛躍してしまった。

明治天皇は、「孝明天皇の第二皇子。母は中山忠能の娘慶子。
嘉永5年(1852)中山邸で生まれ、育てられた」とされる。

慶応2年(1866)12月25日孝明天皇が崩御。満14歳で即位。
慶応3年(1867)統幕の機運イッキに高まり、10月14日大政奉還。

これで、公武合体の議会政治に移行するはずだったが、西郷等の
クーデターで、慶喜と会津松平容保は京を追われ、翌 慶応4年
(1868)正月3日、鳥羽伏見の開戦となる。

この時、16歳の明治天皇は、馬に乗って閲兵式に臨んでいる。
中山家で女御の中で育てられ、ひ弱で馬になど乗ったことの
なかった皇子が、突然、相撲好きで、威風堂々四囲を払う大男に、
変身を遂げるのである。

つまり、孝明天皇の実子である睦仁皇子は殺され、別人とすり
替えられたというのだ。おそろしや。

これで読めた。

孝明天皇は夷人嫌いで左幕派だった。妹の和宮を将軍家茂に
嫁がせ、兄弟の関係を結び、公武合体で攘夷を図ろうとした。
会津松平容保も孝明天皇の信任が厚かった。

ところが、家茂も孝明天皇も相次いで亡くなり、孝明天皇の
実子の睦仁親王も殺された。

そして替え玉の明治天皇は、先帝孝明天皇の遺志とは別に、
慶喜と容保を排斥して、薩長閥の政権を建てた。

また、明治になって、堂々と「南朝こそ正当なり」と英断を
下した。孝明天皇の実子であれば、自身は北朝であり、天皇の
資格が無くなるはずだが、そのまま天皇の位に留まった。この
矛盾が、「明治天皇は孝明天皇の実子ではない」となると、
スツキリ解決されるのである。


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田中光顕伯爵の証言

2010-06-19 03:49:04 | 会津藩のこと
東海道由比から東に向かうと蒲原(かんばら)である。
一昨年、蒲原町に残る古い洋館「五十嵐邸」で、尺八の
ミニライブを行った。そこは、元歯科医の邸宅で
「明治の元勲 田中光顕 伯爵も治療に通った」という
説明書きがあった。蒲原には非公開だが、田中伯爵
の別荘「青山荘」も現存している。

田中光顕伯爵は、土佐出身で明治に宮内大臣を務めた人。
89歳で蒲原の別荘で没したが、晩年に維新の秘史を
語り残している。その中にとんでもない証言があった。
聞き手は、南朝系の三浦天皇家の末裔と称する三浦芳聖
という人。

 「私は60年来 かって一度も何人にも語らなかったことを、
 今お話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、
 私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられる
 のみで、皆故人となりました」

と前置きされて、

 「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。明治天皇は、
 後醍醐天皇の皇子満良親王の御孫で、大内氏を頼って
 長州へ落ち、毛利氏が長州を領有した後も、代々御守護
 申し上げて来た。これが吉田松陰以下、長州の王政復古
 維新を志した源動となった。

  吉田松陰亡き後、勤皇の志士を統率したのが桂小五郎
 である。元来長州と薩摩とは犬猿の間柄であったが、桂
 小五郎と西郷南洲とを引合せて、薩長を連合せしめたのは、
 土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。

  薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎が西郷南洲に
 『我々は南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と
 云う事を打ち明けた時に、西郷は南朝の忠臣菊池氏の子孫
 だったから、衷心より深く感銘してこれに賛同し、薩長連合
 が成功した」

なななな、なんと。

長州は、薩摩と手を組んで、孝明天皇を暗殺し、南朝の王孫を
天皇に擁立して、明治維新を成功させた。そして、西郷は、
口封じのため、西南戦争で殺された、というのだ。ジヤジャジヤーン。


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