私の先祖が書き残した日記では、地震や水害、火事などの災害、
火の玉などの怪奇現象などが、結構の頻度で書かれている。
その「日記」には、「安政2年(1855)の江戸大地震では 死者
10万4,000人」となっているが、実際は「4,000~1万4,000人」ぐらい
だったようだ。風聞が誇大に流れていたとも受け止められる。
また「水戸藩の藤田東湖が、牢獄で獄死した」という記述がある。
これは 解せない。
藤田東湖は、水戸斉昭の懐刀だったが、弘化元年(1844年)
斉昭が謹慎処分を受けた時、共に失脚し、江戸屋敷に幽閉されて
いた。しかし、嘉永3年(1850年)には 水戸に戻ることを
許され、同5年(1852年)には処分を解かれ、翌嘉永6年(1853年)
ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画
すると、藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛
として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には
側用人に復帰している。
翌 安政2年(1855)、安政の大地震の際、母を救おうとして、
落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死した。享年50。
藤田東湖の「自分の命に代えて 母を守った」という美談は、
最近、新聞、雑誌などで よく取り上げられている。
というわけで、東湖が幽閉されていたのは 10年も前の話だった。
何ゆえ「獄死」という噂が流されたのは 不可解である。
この9年後の元治元年(1864年)藤田東湖の遺児「藤田小四郎」が
武田耕雲斎らとともに「水戸天狗党の乱」を起こし、越前敦賀で
捕えられ刑死している。
安政2年、会津藩でも、上屋敷、中屋敷が倒壊した。さらに、
江戸湾に築かれた「第二台場」の警備にもあたっていて、お台場の
建物も崩れ、出火して、中に居た人たち 50人が 脱出できずに
焼け死んだ。大砲が邪魔して出れなくなり、火災で死ぬよりはと
中で 切腹して果てた者もいたという。
火の玉などの怪奇現象などが、結構の頻度で書かれている。
その「日記」には、「安政2年(1855)の江戸大地震では 死者
10万4,000人」となっているが、実際は「4,000~1万4,000人」ぐらい
だったようだ。風聞が誇大に流れていたとも受け止められる。
また「水戸藩の藤田東湖が、牢獄で獄死した」という記述がある。
これは 解せない。
藤田東湖は、水戸斉昭の懐刀だったが、弘化元年(1844年)
斉昭が謹慎処分を受けた時、共に失脚し、江戸屋敷に幽閉されて
いた。しかし、嘉永3年(1850年)には 水戸に戻ることを
許され、同5年(1852年)には処分を解かれ、翌嘉永6年(1853年)
ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画
すると、藤田東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛
として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には
側用人に復帰している。
翌 安政2年(1855)、安政の大地震の際、母を救おうとして、
落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死した。享年50。
藤田東湖の「自分の命に代えて 母を守った」という美談は、
最近、新聞、雑誌などで よく取り上げられている。
というわけで、東湖が幽閉されていたのは 10年も前の話だった。
何ゆえ「獄死」という噂が流されたのは 不可解である。
この9年後の元治元年(1864年)藤田東湖の遺児「藤田小四郎」が
武田耕雲斎らとともに「水戸天狗党の乱」を起こし、越前敦賀で
捕えられ刑死している。
安政2年、会津藩でも、上屋敷、中屋敷が倒壊した。さらに、
江戸湾に築かれた「第二台場」の警備にもあたっていて、お台場の
建物も崩れ、出火して、中に居た人たち 50人が 脱出できずに
焼け死んだ。大砲が邪魔して出れなくなり、火災で死ぬよりはと
中で 切腹して果てた者もいたという。