現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

巡礼と六部

2020-02-02 19:30:54 | 虚無僧日記

『郷土研究』 第19~24号 

80-4 「うき世漫談」 市橋 鐸

「巡礼と六部」

「巡礼」とは各地の霊場を巡拝する人で、笈摺を背に、菅笠をかぶり、

手甲・脚絆をつけて、草履を履き、人家があると御詠歌を唄って

お銭を頂くもの。熊野詣、伊勢詣、金比羅詣、千ケ寺参り、大山詣、

西国三十三ケ所詣といろいろある。

西国三十三ケ寺巡礼は観音巡り、一番が那智、最後が美濃の谷汲山。

鎌倉時代までは 僧侶に限られていたが、南北朝の頃からは俗人も

加わった。

「遍路」とは、空海上人の霊場、四国八十八ケ寺、西国の六十六ケ寺に

限られている。服装は一定していない。

「金比羅詣」は、白装束に、天狗の面をつけた箱を背負って歩く。

(広重の「東海道53次」の中に出てくる)

 

「六十六部」というのは、法華経66部を 全国66カ国、66ヶ所の霊場に

一部ずつ納めるもので、衣装は 天蓋(てんがい)を戴いて、白衣を着、

阿弥陀如来像を入れた笈を背負い、錫杖を持って全国を巡る。

これは室町の中ごろより始まったらしいが、何の理由か、明治4年に

禁止されてしまった。

「六部 六十六部」の画像検索結果

「六十六部」は「天蓋を被る」「明治4年に禁止された」という点で

虚無僧と同じだ。

 


野口雨情 「昭和枯れすすき(船頭小唄)」

2020-02-02 18:45:23 | 虚無僧日記

ある大会社の社長が、カラオケで好んで歌うのは『船頭小唄(別名:昭和枯れススキ)』だという。

企業戦士としてトップまで上り詰めた人でも「心の底」に「どうせ咲かない枯れススキ」があるのだ。「それが、自分を支える生きるチカラになった」とも。

この歌は、1921年(大正10野口雨情が作詞、中山晋平が作曲した。雨情39歳。

それまでの雨情は貧乏のどん底。この歌に最後の望みをかけたが、「こんな暗い歌は流行らないだろう」と誰もが思った。

翌年「昭和枯れすすき」では暗すぎるというので、「船頭小唄」として売り出された。その後 関東大震災が起こり、家財を失った人々の心情を映して、大ヒットした。

そして、この歌は明仁上皇お気に入りの曲とか。

 

 


「野口雨情」の“孤愁”

2020-02-02 18:33:16 | 心の問題

「野口雨情」の画像検索結果

「野口雨情」は1882(明治15年)生、1945(昭和20年)歿。
63年の生涯で、2千もの詩を作りました。

代表作は、『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』

『青い眼の人形』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町

この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』

『波浮の港』『船頭小唄』・・・・・。

どれも、老健施設での演奏のベスト・ナンバーです。

これらの歌は、お年寄りの方は 歌詞カードがなくても、
自然に口を突いて歌ってくれます。時には涙も流してくれます。


野口雨情の詩の多くが、「はぐれる、一人ぼっち、消える」という「はかなさ、孤独感、不安」がにじみ出る歌です。

生まれてまもなく七日目に夭折した娘を思って作ったのが『シャボン玉』とか。

「シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた」の詩にドキッとさせられます。

『 雨降りお月さん』

雨降りお月さん 雲の蔭
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
ひとりで からかさ さしてゆく
傘ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
お馬にゆられて 濡れてゆく

 
『十五夜お月さん』

十五夜 お月さん 御機嫌さん
婆やは お暇(いとま)とりました

十五夜 お月さん 妹は
田舎へ貰らわれて
ゆきました


お嫁にゆくのに「ひとりでゆく」とは なん悲しいことだ。婆やもいなくなり、妹も貰われて行ってしまった。

『赤い靴はいてた女の子』は「異人さんに連れられて行っちゃた。(異国では)迷子になったらなんとしょう。わたしは言葉がわからない」と。
私は子供の頃、外人を見ると“人さらい” と恐怖心を抱いたものだった。子供心にも「不安」や「恐怖心」を煽る歌詞が、なぜこんなに流行ったのだろう。今の世の中、これを 子供に歌って聞かせる親はいなかろう。

ところが、 今、老人ホームでは 一番うける歌になっている。幼い頃の記憶、辛い過去を思い出し、また “老い先 独り の 孤独感 ”を感じているからだろうか。


鶴の恩返し サギの仕返し

2020-02-02 18:22:01 | 虚無僧日記

「鶴の恩返し」は、はかなくも美しい民話だ。
「見てはいけない」と言ったのに・・・」。 でも
「見るな」と云われれば 見たくなるのが
人間の心理。のぞきは男の趣味だ。

この話には続きが・・・・。

鶴に逃げられた与ひょうは、今度は自分で罠を仕掛けて、
一羽の白い鳥を捕まえる。そして罠をはずし「よしよし、
助けてやろう」と、傷の手当をして逃がしてやった。

待つこと3日。トントンと 戸を叩く音。戸を開ければ
また美しい女が。「おぉ来たか、来たか、さあ、もう
決して覗かないから、せっせと機(はた)を織っておくれ。

女は三日三晩、機を織り、「さぁ、これを町へ持って
いって売ってきてくださいな」「よっしゃ、よっしゃ」
と与ひょう。女が織った反物を持って町へ行ったのだが、
「なんだ、これは絹じゃないぞ、偽者だ」と、誰も
買ってくれない。がっかりするやら、腹ただしいやら、
与ひょうは 跳んで帰って、家の戸を開けると・・・。

はて、女がいないどころか、先に反物を売って
手にした金も無くなっているではないか。

そうかしまった。あれは鶴ではなく「サギ」だった。
そう『サギの仕返し』。機(はた)を「織れ織れ
(オレオレ)サギ」の話でした。ガチョヨ~ン。

ところで、この話を創作していて思った。おつうは
自分の姿を見られたくらいで、なんで飛んでいって
しまったのだろうかと。約束を破ったことがそんなに
許せないことなのかと。

木下順二の「夕鶴」は、こうなっていた。「お金が
あれば何でも買える」という与ひょうに「買うって何?
いったいあんたは何を欲しがっているの? 私以外に
何も欲しがってはいや」。与ひょうの心に、欲が芽生え
ていることを察したつうは、与ひょうを突き放します。

「与ひょう、あなたは変わってしまったわ、心優しい人
だと思っていたのに、少しばかりのお金が入ると、もう
金の亡者になってしまった」と、人間の強欲さに愛想を
つかしたのだ。


泉武夫著 『竹を吹く人々』

2020-02-02 18:20:57 | 虚無僧日記

ネットで、泉武夫著『竹を吹く人々』をゲット。
「東北大学出版会・人文社会科学ライブラリー第2巻」
副題は「描かれた尺八奏者の歴史と系譜」

著者の「泉武夫」氏は、1954年宮城県生まれ。
東北大学文学部を卒業し、大阪市立美術館や
京都国立博物館の研究員を経て、現在は「東北
大学・大学院」の教授。専門は「仏画」だが、
琴古流尺八師範。「横山勝也」氏に師事し、
現在は、先代住の「郡川(こおりかわ)直樹」に
師事しているとのこと。

私事だが、「郡川」君は、青森出身。学生時代
よく付き合い、合奏も共にした仲。当時、学生
仲間では彼が一番うまかった。「真山」の竹を
紹介してくれたのも彼。当時は「真山」の竹は
4・5万。といっても大卒の初任給より高かった。
その彼は、今仙台に住み、私と年賀状のやりとり
はしている。

さてさて『竹を吹く人』に収録された図版は51点。
大抵は私も知っている。泉氏が述べているように
「尺八は今や世界に広まり、確実に根を広げている。
しかし、その尺八や虚無僧の歴史については虚実混合。
絵画に描かれた尺八と、それを吹く人の姿は より
実像に近いのではないか」と。

この書では「虚無僧のように求道、修行を目的に
したグループ」と「遊興として吹いたグループ」の
二つの流れがあることを絵によって明確にしている。

「尺八は虚無僧だけに限られていた」とされて
きたが、実際には「若衆」も「無頼の徒」も
「遊女」までもが 遊興に吹いていたと。

虚無僧でも派手な女物の着物を着ている浮世絵は
たくさんある。虚無僧は「男女」の境を越える
ものと認識されていた節もあると私も考えている。

私も、慶応史学科卒として、長年「虚無僧の歴史」
を研究し、史料を集めてきて、やがては集大成
したいと考えていたが、泉氏に先を越されたか。

「尺八と虚無僧」の歴史を語る、もっとも信用の
おける本である。

「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


虚無僧の「天蓋」の変遷

2020-02-02 17:59:31 | 虚無僧日記

「天蓋(てんがい)」とは、仏像の真上や 僧侶の頭上に飾られた
笠のことだが、虚無僧の被(かむ)りものも「天蓋」という。

虚無僧の「天蓋」は、籐編みのバケツのような筒型。虚無僧独特の
ものだが、いつ 誰が あの形を考案し、被ったのか、判らない。

『虚鐸伝記国字解』には「虚無僧の祖は“楠木正勝”として、
天蓋を被った虚無僧の挿絵が描かれている。しかし、この書は
江戸後期の1795年に出版されたもの。


室町時代から慶長(1596~1615年)の頃までに描かれた「薦僧
(こもそう)」は 天蓋は被っていない。

江戸時代初期 1650年頃に刊行された『一休諸国物語』は
「一休が普化僧となって」とあるが、「天蓋」は被っていない。

岩佐又兵衛(1578〜1650)の描いた「池田家伝来・樽屋屏風」では
三角の浪人笠(烏追笠に近い)を被った「薦(こも)の図」が
描かれている。刀も差している。

元禄3年(1690)刊行の『人倫訓蒙図集』でも、一人は禅僧の法衣に
網代笠、一人は 道服に袈裟をかけて、三角の浪人笠(烏追笠に近い)
である。

『嬉遊笑覧』に「薦僧の笠、享保(1716-1735年)より、小ぷりにて
深く作ると言えり。されど、寛政(1789-1801年)頃の江戸絵には、
物見の穴あきたる笠にて形は裾広なり。(筒型に)深く蒼みたる笠は
宝暦・明和(1752-1771年)の未の頃の絵よりみえたり」と。

つまり、現在の「天蓋」のようなものは、1750年以降で、さらに、
顎までかくれるようになったのは、天保、弘化(1830~1848年)の頃と、
考えられる。もう幕末だ。



忍城の落ち武者が建てた青梅「鈴法寺」

2020-02-02 17:11:57 | 虚無僧って?

東京都の西はずれ青梅市に「鈴法寺跡」があります。

鈴法寺は、江戸時代、下総小金(現松戸市)の一月寺とともに
虚無僧本寺を名乗っていました。これに京都の「明暗寺」が対抗して、
本寺であることを主張するのですが、幕府は、江戸浅草にあった
鈴法寺と一月寺の出先機関を窓口にしていた。
尚、幕府からの文書には「虚無僧本寺」とあって「普化宗」と
いう表記は無いのです。

明暗寺や一月寺が寺といえるほどの敷地をもっていなかったのに比べ、
青梅鈴法寺は300坪余り、山門、本堂を有し、寺としての風格を
備えていました。

鈴法寺の成り立ちは はっきりしています。この辺一帯の豪農だった
吉野家の古文書に、「慶長18年(1613)、吉野家の先祖が、この辺
一帯を新田開墾し、井戸堀人足を探しに川越に行った折、忍城落城の
時討死にした同僚の秋山氏の倅に会い、彼のために、敷地内に
鈴法寺を建ててやった」と記録されているのです。

吉野家の江戸時代に建てられたという民家は、都の指定文化財として
保存されているそうです。

吉野氏と同僚の秋山氏は、北条方の「忍城」の家臣でした。慶長18年、
豊臣秀吉の小田原攻めで、忍城も攻められ、秋山氏は戦死し、吉野氏は、
新田開墾をし、豪農となって生き残ったのです。