現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

昭和23年帝銀事件

2020-02-05 21:16:44 | 虚無僧日記

私が生まれた昭和23年2月4日の新聞を見ると

帝銀事件のことが大きく取り上げられている。

事件発生

 
事件発生時の帝銀椎名町支店

1948年1月26日(昭和23年)午後3時過ぎ、帝国銀行椎名町支店に

東京都防疫班の白腕章を着用した中年男性が、厚生省技官の名刺を

差し出して「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する

前に予防薬を飲んでもらいたい」と偽り、行員と用務員一家の合計16人

(8歳から49歳)に青酸化合物を飲ませた。その結果11人が死亡。

さらに搬送先の病院で1人が死亡し、計12人が殺害された。

犯人は現金16万円と小切手を奪って逃走した。

 

 
平沢貞通
 
犯人の行動を再現させられる平沢

 

遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いに熟知した、

旧陸軍731部隊関東軍防疫給水部本部)関係者を中心に捜査が

行われた。しかし突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じ

られてしまう。[2]

 

そんな中、類似事件で使用された「松井蔚」の名刺の捜査で、

後に「吉展ちゃん誘拐殺人事件」の解決で名を馳せる刑事「平塚八兵衛」

地道な捜査で、平沢貞通を逮捕した。

警視庁は平沢を生存していた被害者に面通ししたが、「この人物だ」

と断言した者は一人もいなかった。

逮捕当初、平沢は一貫して否認していたが、拷問による自白の強要で

罪を認め、裁判では一転無罪を主張するも、死刑確定となった。

 

平沢はその後再三、再審を請求するも棄却され、死刑執行されないまま、

1987(昭和62年)八王子医療刑務所で病死した。95歳。 

この事件について松本清張も詳しく論じているが、毒物の知識が

全く無い平沢が犯人であるわけはなく、毒物の入手経路も明らかに

されずに、強引に犯人に仕立てられた。

それは、731部隊の関係者に捜査が及ぶことを怖れたGHQ

そして政府の陰謀による、冤罪であったと結論づけられている。

松本清張日本の黒い霧』(1961年)『小説帝銀事件』

 
 

 


親鸞会

2020-02-05 18:45:04 | 心の問題

五木寛之氏は、「『親鸞』をインターネットで、誰でもが
自由に、無料で読めるようにしたい」と語っていた。
五木寛之氏の『親鸞』は、多くの親鸞ファンを作った。
浄土真宗にとっては、ありがたい“神様”のような存在だ。

ところが、梅原猛も指摘しているが、「悪人でも『南無
阿弥陀仏』と一回でも唱えれば、極楽往生できる」という
のであれば、「窃盗、人殺しをしてもかまわない」という
危険な思想を生む。その解釈を巡って、さまざまな教義が
立てられ、教団が分裂し、対立している。東と西本願寺の
対立。さらに「親鸞会」と本願寺との醜い争いもある。

現在の浄土真宗系の坊さんは髪も剃らない。戒を犯して、
肉食、飲酒、妻帯もはばからない。普段、法を説くこと
もせず、葬式に多額の金を要求する。「これがまことに
親鸞の教えなのだろうか」と誰しもが思う。

それは、日蓮宗でも同じ。創価学会、顕正会などが、
日蓮正宗と対立し、誹謗中傷し合って、お互い「地獄に
堕ちろ!」とののしりあっている。

こんな仏教界に、庶民はますます冷ややかだ。それでも、
それぞれの会に入信する人がいるのも不思議。病める
現代社会なのか。


沼津興国寺城は北条早雲の城に非ず

2020-02-05 05:44:07 | 戦国武将と城

沼津には、北条早雲が最初に築いたという「興国寺城」がある。
「興国寺城は北条早雲が最初に築いた城」と、どの書にも書いてある。

定説になっているが、私はこの説には疑問を呈したい。

「最初に築いた城」の名になぜ「興国寺」と「寺」がつくのか?

「興国寺城」がはっきり文献に現れるのは、天文18年(1549)。
「今川義元が、興国寺の地に城を築くため、寺の敷地田畑を
とりあげ、他に代替地を与えて、真如寺と改めさせた」と
いう記録である。(「高白斎記」) つまり、1549年まで、
ここは 城ではなく興国寺という寺だったのである。
そして、今川の城として築かれたのだ。

その今川義元が、永禄3年(1560)桶狭間で討ち死にすると、
永禄11年(1567)武田信玄が駿河に侵攻してくる。そこで
北条氏康は北条氏邦に命じて、興国寺城を奪取させた。

その後も武田と北条氏との対立は続き、元亀元年(1570)、
武田勢は、興国寺城に攻撃をかけたが、城を守る垪和(はが)
親子はよく戦って、これを撃退している。

元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は諏訪から伊那郡を
経て遠江に出、「三方ヶ原」で家康を破り、野田城を落と
したが、そこで寿命が尽きた。

信玄亡き後、武田勝頼は、信玄の遺訓に反して、駿河に
侵攻し、興国寺城も武田氏の持ち城となっている。

「興国寺城」が、後北条氏の祖、伊勢新九郎(北条早雲)の
最初の城ならば、北条氏は守り抜くであろうが、簡単に
手放しているのだ。

「興国寺城」が「北条早雲の最初の城」とする説は、江戸
時代、北条家が滅びた後に言われ出したことである。


義経の兄「阿野全成」と虚無僧の関係

2020-02-05 05:21:11 | 虚無僧って?

源義朝の正室で頼朝の母、熱田神宮の宮司「藤原季範」の娘が

「由良御前」だそうだ。紀伊和歌山の「由良」と関係があったのだろうか。

紀州由良には「実朝の菩提を弔うために建てられた」という興国寺がある。

日本に普化宗を伝えたのは興国寺の開山「法燈国師心地覚心」と、

虚無僧と興国寺を結びつけた『虚鐸伝記国字解』は、巻頭に

「阿野家に伝えられた」と書かれている。

「阿野家」の祖は、なんと「源義経」の兄「阿野全成」なのだ。

「常盤御前」が生んだ長子「今若」は、醍醐寺に預けられ、

「阿野全成」となる。頼朝の挙兵に、寺を抜け出して駆けつける。

「義経」の名声に隠れて、全く知られていないが、

「阿野全成」の妻は、北条政子の妹保子(阿波局)。

その「阿波局保子」は、頼朝の二男「実朝」の乳母となる。

「阿野」の子孫が、後醍醐天皇の后「阿野廉子」。

NHK大河ドラマ『太平記』でもでてきた。

「阿野廉子」の子が南朝の二代目「後村上天皇」である。

後村上天皇によって「南朝・興国」という年号が定められ、

紀州の「西方寺」が「興国寺」と名を変える。

実朝と北条政子の菩提を弔うために建てられた「西方寺」が

南朝の「後村上天皇」の信任を得るとは、いささか奇妙。

「由良、阿野、実朝、後村上天皇、森女、一休」というキーワードが、

「興国寺」そして「虚無僧」とつながる。この細い1本の線から、

由良の興国寺が、なぜ虚無僧の本山とされたのか。

その謎をぜひ解き明かしてみたい。