現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「小林ハル96歳の絶唱」

2020-02-03 21:18:32 | テレビ・映画・芸能人

『最後の瞽女(ごぜ) 小林ハル96歳の絶唱』という
CDを聞きました。

小林さんは、明治33年(1900)、新潟県の(現)
三条市に生まれ、 生後3ヵ月で 白内障を患って
失明します。

親が占い師に見てもらったところ「この子は長生き
する」とのこと。それだけに、「一人で生きていく術を
教えなければ」と、母親はハルに厳しい躾けをします。
5歳で「瞽女」に預けられ、三味線と唄の修行。
それがすさまじい。

「寒30日の修行」は、雪の降る中、信濃川の岸辺で
対岸まで届くような大声で歌う。喉がつぶれ 血を
吐いて、声が出なくなっても続けるというもの。

そうした訓練によるものでしょうか、ハルさんが
96歳で吹き込んだCDは、実に若々しく朗々と
ハリがある声です。大地の響き、血の絶唱!

聞く者は、まずその声量に圧倒されます。そして
技巧も衒(てら)いもない 無心で歌う姿に 心 惹かれ
ます。

瞽女や虚無僧、津軽三味線の「ぼさま」が 村々に
受け入れられたのは、まさに、人々の心を打つ
生き様だったのではないでしょうか。


6世荒木古童はアメリカ人

2020-02-03 20:57:47 | 虚無僧日記

5世荒木古童(現2世竹翁)の三男「半三郎」君は、母親が
アイルランド系アメリカ人で、1970年アメリカ生まれ、
アメリカ国籍で「ハンズ・アラキ」。シアトルに住む。

尺八の他、母方の先祖の地、アイルランドの「ケルト
民俗音楽」を習得し、アイリッシュ・フルート奏者と
して活躍している。CDは、カナダで「年間最優秀賞」
や「新芸術家賞」を受賞。

そして、映画『タイタニック』の中の、三等客室での
アイリッシュ・ダンスの音楽を指導されたとか。

『タイタニック』のテーマは、尺八に似たアイルランドの縦笛                                                                                             「ティンホイッスル」だ。

琴古流の最も古い流派「荒木派」の家元、荒木竹翁氏は、
今「世界に尺八を広めた人」として、NHKでも紹介
される存在となった。




「異端こそ正統」猿之助

2020-02-03 20:48:29 | 虚無僧日記

一昨年の二月に書いた記事の再掲です。

日経新聞・文化欄「私の履歴書」に「市川猿翁(前・猿之助)」が
連載。(一昨年二月のことです)。見出しは「異端こそ正統と確信」。
まさに我意を得たり。

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芝居は嘘と本当をつき混ぜて、真実以上の真実を作る。
歌舞伎は嘘のつき方が大胆不敵。その醍醐味はバカバカ
しいほど派手な演出と、役の内面を突き止める心理描写との
対比や調和にある。

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歌舞伎界の連中や評論家から、本名の「喜熨斗(きのし)」を
もじって「きのしサーカス」だの「猿の犬かき」と揶揄され
ても、観客は喜んでくれ、連日大入り満員。批判する人より
喜んでくれる人の数が多ければいい。

歌舞伎界初の「カーテンコール」「スタンディング・オペ」。
そして、アメリカ、カナダ、ヨーロッパでの海外公演でも
熱狂的なカーテンコールを受け、猿之助は「異端こそ正統」と
確信を得たという。

世界の演劇・舞踊界が歌舞伎に注目している。
「西洋の演劇界はリアリズムに行き詰まり、それを
打ち破ろうとしている。歌舞伎は現代で最も進んだ
演劇形態だ。日本人は気づいていないが、歌舞伎は
斬新でモダン。空間や間の使い方、役者の体の使い方を
学ぶことができる」と。

そう、浮世絵が西洋絵画に影響を与えたように、尺八も、
リズムと音階の組み合わせに行き詰った西洋音楽に、
ノーリズム、ノーメロディの音楽という衝撃を与えた。
そして 私は 虚無僧界の異端児だが、虚無僧も江戸時代は
歌舞伎舞台のスターだったのだ。

「日本人は気づいていないが」という言葉に、勇気を
いただく。



柴 五郎 陸軍大将

2020-02-03 18:55:58 | 虚無僧日記

今日(2/2)NHKラジオで「日本人が知らない、世界に知られた日本人」として「柴五郎」が取り上げられていた。

「柴 五郎」の画像検索結果「柴 五郎」の画像検索結果

柴五郎は 1860(万延元年)会津藩士 柴佐多蔵(280石)の五男として生まれる。

明治元年の会津戦争の時8歳。祖母・母・兄嫁・姉妹は籠城前に「足手まといになっては」と自刃した。

五郎は親戚に預けられていて、戦後 父や兄達と再会する。翌年斗南藩(現 青森県]むつ市)に移住。

食べる物も着る物もない極貧生活の中でも、父は五郎を青森の学校に通わせた。雪の中2里(8Km)の道のりを素足に草鞋履きで通ったという。この話を子供の頃から聞かされている我々会津人は冬でも自宅では足袋(靴下)を履かない。

斗南藩はわずか2年で廃藩置県となり消滅。五郎は東京に出、1873年(明治6年)陸軍幼年学校に入校。

この時、当初、教官はフランス人で、歴史の授業もフランス語でフランスの歴史。その後、ドイツ人に変わり、今度はすべてドイツ語で、夜も寝ずに蝋燭の明かりで勉強したという。

1877年(明治10年)陸軍士官学校に進み、1880年(明治13年)卒業する。士官学校第3期の同期には、上原勇作元帥内山小二郎秋山好古本郷房太郎の各大将がいる。柴五郎は学業優秀でありながら、会津人ということで、出世は一番遅れた。

1884年(明治17年)清国に左遷され、福州北京に駐在する。

その後、近衛砲兵連隊陸軍省に勤め、陸軍士官学校教官となる。1895年(明治28年)日清戦争に出征し、5月に帰還、9月イギリス公使館附となる。

1899年(明治32年)10月の陸軍中佐となり1900年(明治33年)、清国公使館附を命ぜられる。

駐在武官として着任まもない5月、義和団の乱が起こる。柴は各国の居留民の保護にあたり、また他国の護衛兵と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い、各国からその功を称えられる。

柴は事前に北京城およびその周辺の地理を調べ尽くし、さらには間者を使って情報網を築き上げていたことから、各国篭城部隊の実質的司令官であった。事変後、柴はイギリスのビクトリア女王をはじめ各国政府から勲章を授与された。ロンドン・タイムスはその社説で「籠城中の外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。日本兵の輝かしい武勇と戦術が、北京籠城を持ちこたえさせたのだ」と記した。これによって、柴は世界で最初に広く知られる日本人となった。

イギリス公使クロード・マクドナルドは、柴と日本兵の勇敢さと礼儀正しさに大いに心を動かされ、1901年英国首相ソールズベリー侯爵と会見し、日英同盟の構想を述べ、日英同盟が締結された。柴は日英同盟の影の立役者となった。今日のNHKラジオでも、この点が紹介されていた。

義和団の乱で武勲を立てながらも閑職にまわされ、1919年(大正8年)ようやく陸軍大将となる。

1930年(昭和5年)4月に退役。

1945年(昭和20年)太平洋戦争敗戦後の9月15日に自決を図ったが、死ねず、12月13日に落命する。享年85。

わが家には、柴五郎の書と、私の父(五郎)が出征の時に揮毫してもらった日章旗が有る。