以前の記事ですが、昨日十数人の方に読まれていますので、再掲します。
親鸞は、平安時代の末期から、平家の栄華と滅亡、義経の悲劇、
そして頼朝の鎌倉幕府設立という激動の時代に生きたのだが、
五木寛之は、そうした時代背景にはほとんど触れていない。
歴史好きな私としては、時代背景を調べてみた。というのも、
親鸞は頼朝、義経と縁戚関係にあるという。
親鸞の父は日野有範(ありのり)。親鸞が子供の頃出家し、親鸞は
叔父に育てられた。
親鸞の母は清和源氏・八幡太郎義家(1039-1106)の孫娘・吉光女
(きっこうにょ)と伝えられている。しかし、親鸞は1173年の
生まれで、年代的に無理がある。義家の孫 為義が1096-1156で
ある。同じ孫の為義と77歳も年が離れていることになる。
そこで、以前梅原猛氏が中日新聞に「親鸞の母は、源義朝の娘では
ないか」と書いていた。義朝は源頼朝、義経の父である。義朝の娘
なら頼朝、義経と兄妹になる。親鸞は頼朝、義経の甥子なのだ。
源為義(1096-1156) 保元の乱で子の義朝に討たれる
源義朝(1123-1160) 平治の乱で平清盛に敗れ、野間で家臣に討たれる
源頼朝(1147-1199)
源義経(1159-1189) 兄頼朝の不興をかって平泉で討たれる
親鸞 (1173-1262)
親鸞が生まれたのは、頼朝が29歳で伊豆におり、義経は14歳でまだ鞍馬
に幽閉されていた年。文覚が伊豆の頼朝の下に行き、父義朝公のしゃれ
こうべを見せて平家追討を説いた年である。
頼朝の挙兵はそれから7年後の1180年。この直前、以仁王の令旨によって
源三位頼政が挙兵して失敗。親鸞の叔父日野宗業は以仁王の学問の師で
あったことから、日野一族の養父も苦境に立たされる。
平家が滅び、頼朝が鎌倉幕府を開くのが1192年、親鸞19歳。比叡山で
修行中だ。親鸞が法然の門に入るのは1201年。頼朝の死後2年後のこと。
そして1207年、親鸞は佐渡に流されるが、この時の将軍は頼朝の子の
頼家。親鸞の母が義朝の娘なら、頼家と親鸞は従兄弟同士になる。
こうした源家とのからみについて書いたものは全く無い。
梅原猛は、親鸞の「人は皆悪の心を持つ」という原罪感は、母方の
源氏の血を引くことからきているのではないかと唱えている。
なるほど、母が義朝の子なら、義朝は父為義を殺している。従兄弟の
義経は同じく従兄弟の木曽義仲を討った。その義経は兄頼朝に殺された。
頼朝の子実朝は甥の公暁に殺される。為義以前にも、八幡太郎義家以来
源氏は骨肉相食む血なまぐさい抗争が絶えないのだ。所詮源氏は、野蛮な
坂東の荒くれ武者。親鸞が頼家の従兄弟であっても、佐渡への流罪は
免れなかった。その頼家は、母政子によって殺されるのだ。