『会津会会報』第114号(平成20年)に 「小池明」氏により
「西郷頼母と きみ」の写真が掲載されていました。
明治5年と明治19年に撮影されたもの。
(よくぞ、このような写真が出てきたものと感心します)
小池氏の説明によれば、「文久2年(1862) 西郷頼母は
藩主(容保)に京都守護職の辞職を迫って勘気を蒙り、
家老職を解かれて、会津城外の長原村に【栖雲亭】を建て、
そこに蟄居した。しばらくして、そこへ 伊与田為成が
訪ねてきた。伊与田為成(350石)は 京都勤番中、妻が
病死したことで、殿から格別の暇をもらい、会津に帰る
ことになったが、その際、殿から「頼母の栖雲亭を訪ね、
『余は汝のことを忘れてはいない』と伝えよ」と言伝を
託されてきた。
(『八重の桜』でも、そのようなシーンがあったような)
そして、伊与田為成は、その後もしばしば栖雲亭を
訪ねて西郷と昵懇となり、娘「きみ」に西郷の身の
周りをさせるほどにもなった。
と。なるほど、西郷頼母の栖雲亭蟄居は5年に及び、
その間、「きみ」と情を通じるようになり、一子が
生まれたとしても不思議はない。
星亮一『西郷四郎の生涯』によれば、「行儀見習いの
名目で西郷家に仕えていた伊与田喜平衛の娘 きみ と
情を通じ、密かに生ませた子を 頼母の実弟 山田
陽次郎の配下の志田貞二郎に預け育てさせた。
慶応4年(1868)8月23日、西軍の侵攻で、頼母の
母、妻、娘たち21人が自刃するが、「その前日、
妻の千重子が用人を津川に差し向けている事実が
ある」とも。
頼母も四郎は写真でみても、小柄で、顔つき、目鼻
口元そっくりである。実子説は限りなく真実に近い。
そして「伊与田きみ」も丸顔で目元キリッとして
四郎に似ている。
さて、その後の「きみ」さんは、慶応2年、
会津藩士「遠山主殿」と結婚している。
ちょっと待って、四郎が生まれた年じゃん。
この時「きみ」20歳。
ところが2年後の慶応4年6月夫「遠山主殿」は
戦死。8月頼母の妻、娘たち自刃。それぞれ
伴侶を失った二人は、10月に結婚。
と書かれているが、まさか、頼母は箱館に行って
いたはず。
そして明治3年、「きみ」は伊与田家の者と一緒に
津軽(青森県上北郡)に移住する。そこで箱館で
捕えられ津軽藩のお預けとなっていた頼母と劇的な
再会をする。う~ん、ドラマチック。
その後、明治5年西郷頼母と妻きみは静岡県の
西伊豆に居た。ここで頼母は「謹申学舎」という
塾を開いて伊豆一帯の師弟の教育に当たっていた。
上記の写真はこの時撮影されたもよう。
明治13年(1880年)頼母は日光東照宮の禰宜となり
旧主容保をた補佐する。た。明治20年(1887年)、
日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。
明治22年(1889年)から明治32年(1899年)まで、
福島県伊達郡の霊山神社の神職を務める。この時
西郷四郎が訪ねてきて50日ほど滞在している。
実の生みの母「きみ」と対面したのだろうか。
実は明治23年「きみ」と頼母は離婚している。
明治36年(1903年)西郷頼母が会津若松の十軒長屋で
74歳で亡くなった時、側に仕えていたのは別の女性だった。
「きみ」は 明治26年、南会津郡伊南村の神官
「大宅正則」に嫁し、大正14年まで生きた。
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西郷頼母の戸籍が伝法寺村16番地にあります。これは頼母の末弟安之進が、同村20番地の立川家の養子になたことが戸籍で確認されました。
ネットで「斗南藩の歴史」(3)西郷頼母の資料にあります。
小池明さんの会津に生きた「伊与田きみ」を見て、きみさんから見た明治の西郷頼母の小説を書けないだろうかと調査しておりますが、疑問がいくつかあります。
①西郷四郎の実母説は可能性が低く、側女三留安のほうが可能性が高い。二人の幼子を手放して頼母と結婚するのは不自然で、結婚してから子供はできなかった。離婚の必要性もない。研究家の牧野登氏は頼母と志田貞次郎の妻の間にできた可能性を指摘しているが、証拠はない。
②結婚した時期が明治2年10月とすれば、きみさんは斗南に行かないで、館林の頼母を訪ねて結婚したことになるではないでしょうか。
③きみさんの実子「つや」を預けた横山家の身分は藩士、奉公人、若松の方なのか分かるのでしょうか。
④再々婚した大宅正則さんは、村長兼神官とありますが、家柄は藩士、神官、庄屋だったのかわかるでしょうか。
⑤きみさんの特技はなんでしょうか。伊豆松崎町の写真展(ネットにあり)には本を読んでいる若く、美しい写真があります。頼母は易学にも詳しく、きみさんも占い師をやったとすればおもしろいのですが。
⑤牧原様、著者にも問いあわせてみたいので、小池氏のメールアドレスか住所等を教えていただければ幸いです。
「合気の創始者武田惣角」著者池月映
ikezuki@ikezuki.sakura.ne.jp
これはあくまでも仮説ですが、養子になった四郎は頼母と親子を名乗り合うこともなく、嘉納治五郎と親しい勝海舟に相談したが納得できず、講道館も頼母の元も離れていった。
頼母はきみと離婚して側女やすをもらった。そこに、四郎が訪ねて、霊山で50日間滞在して暮らした。晩年の頼母と四郎のわだかまりは解けたから、西郷近一と三人の写真がある。
三留やすが四郎の実母であればつじつまがあう。四郎の祖父はきみと離婚のころ、水死とあり謎もある。三留という藩士の名前はなく、四郎の故郷津川町の電話帳には三留姓が14軒残っている。
実際は、きみと四郎の写真、三留安の素性が判明しないと謎は解けないと思います。
津川の西郷四郎資料館に頼母が一人で立ったままの写真があり、これは東照宮の大日光という会報にも小森家から提供されたとある。やはり、140センチと低い。どういうわけかこの写真は研究家、観光施設でも公開されない。だから、ドラマでは背の高い俳優が演じているのでは。頼母は日光で7年間、「晃山叢書」という歴史編纂事業をやって学者の功績を残し、このことも明らかになった。頼母は学者であって、武術の達人ではないでしょう。
これを見た武田惣角の門人佐川幸義は津本陽氏が孤塁の名人で書き、「写真を見るかぎり、武術の達人とは思えない」といったのでしょう。
いつも、興味深く読まさせて頂いてます。
質問なのですが、
西郷頼母の本姓は「保科」のページで西郷四郎の本籍が伊与田家にあったとなっていますが、その頃の本籍はどの様に調るのですか。
私の曾祖父の伊与田直江はきみの弟で伝法寺村にいたのでとても興味があります。
よろしければ教えて下さい。
それ以外にも何か情報が有りましたら教えて頂ければありがたいです。よろしくお願いします。