昭和6年12月に出された『会津史談』第1号に
西郷頼母の『栖雲記』が載りました。ガリ版刷りで
見にくいのですが、その最後に「由緒書」として
一 清和源姓 本国信濃 井上掃部助頼季の流
保科、又 穂科、或いは 星名
一 我が家系は、保科正直の弟 正勝 の子 民部
正近、子無きをもって娘を西郷房茂に嫁せし
妹の子「頼母近房」を養い、沼沢吉通に嫁せし
妹の子を妻とする也
一 西郷家も清和源氏にして徳川の親戚たり
さて、何がなんだか。要は
会津藩祖「保科正之」は、実は徳川二代将軍「秀忠」の
隠し子で、信州高遠の「保科正光」に預けられる。
その保科正光の叔父「正勝」の流れが、会津藩家老と
なった「保科」氏。
つまり、会津藩主には「保科」の血は流れておらず、
家老の「保科」こそ「保科」の血筋。
ところが、この会津藩家老となった「保科」氏にも
二つの流れができます。
初代「正近」が亡くなる前にその子二代「正長」が病死。
正長には生まれたばかりの「九十郎」がいたが、赤子だった
ため、無事成長するかどうか分からない時代。
そこで、「正長」の妹とその夫「西郷房茂」の次男「近房」を
養子に迎え、さらに正長の3番目の妹を「近房」にめあわせた。
(甥子と叔母の結婚)
しかし実子「九十郎」が無事成長したので、「近房」は
全知行を「九十郎」に譲り、新たに 500石を拝領、分家して
実父の姓である「西郷」を名乗った。
成人した本家の「九十郎」は「保科民部正興」と名乗り、
しばらく藩政の中枢にあったが、京都から迎えた妻「藤木氏」が
身内を重臣にとりたて、藩の人事と政治に口出ししたという罪で
「民部」は 鹿瀬水沢(現新潟県阿賀町)に追放、流刑となり、
会津藩筆頭家老の保科本家は断絶。
このことにより、いったん正興に本家を譲った「近房」が
保科家の本流となるが、藩主と同じ姓では畏れ多いと、
「西郷」姓でのまま 代々筆頭家老を務めます。
その「西郷」家も「徳川」の親戚という。徳川二代将軍
秀忠の母は、家康の側室「西郷の局」。その縁戚とか。
となると、家老「西郷」家は、会津藩祖「保科正之」の祖母
「西郷の局」にもつながるということ。
家老「西郷頼母」が、『栖雲記』の最後に、「保科と徳川の
縁戚」であることをあえて書き記したのも 意味が深い。
「西郷頼母」は、明治になって旧姓「保科」に改め、
「保科頼母」を名乗った。そうなると「西郷」家を継ぐ者が
いない。そこで「志田四郎」を養子にして「西郷四郎」と
名乗らせた。
さて、四郎が頼母の実子であると思われる決定的?史料が
見つかった。
『頼母の日記』の中に「明治21年1月23日、四郎は別家して
西郷と称せむことを願い置いたが、今日願い済みの指令を
【本籍】伝法寺村なる伊与田が方より送りこしたれば、
四郎のもとにへやる」というもの。
四郎の【本籍】は、実母「伊与田きぬ」方にあった。
「志田」ではなく「伊与田」家にである。いかが。
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