さて、「保科頼母」は、明治20年、日光東照宮の神職を辞し、
福島と東京を行き来しながら「大同団結」運動に加わり、
代議士に立候補する準備をしていた。
そんな中、明治21年1月23日、「四郎は別家して西郷姓と
なることを役場に申請していて認められ、その通知が本籍の
ある伝法寺村の伊与田家より送ってきたので、それを四郎の
もとにやった」。と「西郷頼母」の日記に書かれている。
この時、戸籍上「頼母」は「保科」姓に、「四郎」は「西郷」
として別家した。「保科」の戸籍はこの時 作られ、「明治12年
吉十郎の死後まもなく、四郎を養子にした旨」書かれたのでは
ないだろうか。
この明治21年。「西郷四郎」は 講道館で柔道一直線の時代。
このあと「大同団結運動」が瓦解し、明治22年(1889年)
から明治32年(1899年)まで、「頼母」は福島県伊達郡の
霊山(りょうぜん)神社の神職を務める。
「西郷四郎」の方は、明治23年6月23日、嘉納治五郎が
洋行中、留守を託されていながら、『支那渡航意見書』を残して、
講道館を出奔する。四郎25歳。
「頼母の会津出奔」「四郎の講道館出奔」「大同団結運動」に
関わった頼母、中国の辛亥革命に関わる四郎。「頼母」と
「四郎」は顔つき、体格だけでなく、性格も生きざまも
よく似ているのである。
講道館を出奔する前の5月9日、「西郷四郎」は、郷里
津川に帰省していた。その帰途、霊山神社に 父「頼母」を
訪ねている。その時、そこに母「きみ」の姿は無かった。
四郎が訪ねてくる直前「きみ」と「頼母」は離婚していた
のだ。離婚の理由を四郎は詰め寄ったが、頼母は一切無言で
あったという。
「きみ」は 明治26年、南会津郡伊南村の神官「大宅正則」に
嫁し、大正14年まで生きた。墓は伊南村にある。
明治36年(1903年)西郷頼母が 会津若松の十軒長屋で
74歳で亡くなった時、側に仕えていたのは別の女性だった。
(下女・斉藤なか)。葬儀は、「保科頼母」の養子として
入籍した11歳の「保科近一」を喪主にして行われた。
大正8年、四郎の実母?「志田さた」が82歳で亡くなる。
この時、四郎54歳。神経痛に冒されていて、2年後の
大正11年12月23日、尾道で亡くなった。かつて
「講道館の四天王」と もてはやされた「西郷四郎」の
葬儀に、講道館関係者の参列は一人も無かったという。
「西郷四郎」にも子はなく「孝之」を養嗣子にしている。
その最期まで「頼母」と「四郎」は似ているのである。
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