加山雄三が「ボクは歌はアマチュアだと思っている。それは
ある先輩から、『歌のプロになったら、歌うのがつまらなくなる。
アマチュアで、心から楽しんで歌うことで、聞く人も喜んでくれる』
と教わったから」と。
その意味で考えれば、アマチュアの尺八は、「本当に尺八が
好きで好きでたまらない」という姿が見えてくる。『竹籟五章』や
『片足鳥居』など、こんな難しい曲でも兆戦して吹けるようになった
という喜びが伝わってくる。私がプロとして吹くとなると“辛さ”が顔に出る。
加山雄三は、もうひとつ「“上手ですね”と言われるうちはダメ」
とも。
「“上手ですね”というのと“いいですね”とは違う。ピカソの
若い頃の作品は、実に写実的に描写している。それを見た妻が
“ピカソって絵が上手かったのね”と言った。それを聞いて思った。
“上手に描けている” というのと “いい絵ですね”は 違うのだ」と。
それに当てはめて考えれば、楽譜通りに正確に演奏しても、
それは“上手”な演奏であって“いい演奏”とは評価されない。
“いい演奏”とは、上手に吹くのとは 別の次元なのかも。
会津藩が北海道をプロイセン(ドイツ)に売り渡そうと
していた話。会津藩にそんな権限があったのだろうか。
実は、意外な事実。北海道の東、現在の根室、
網走地方は幕末、会津藩領だったのだ。
江戸時代半ば、ロシアが度々蝦夷地を犯すようになり、
幕府は、享和2年(1802)蝦夷地を直轄地とし、文化4年
(1807)から東北各藩に北方警備を命じた。
文化5年(1808)会津藩は、一千人の藩兵を宗谷岬と
利尻島、そして樺太に派遣した。私の先祖も、樺太
警備に就き、帰路、船が遭難して 秋田に漂着して、
1ヶ月半もかかって、会津に帰還している。
その後、安政2年(1855)から慶応2年(1866)に
かけては秋田藩が北方の警備に当たった。
その一方、1859年(安政6年)会津藩は蝦夷地の一部
(現在の根室、網走地方)を領地として与えられ、
漁業や開拓を進めた。山国会津にとっては、網走からの
ニシンや昆布は貴重な蛋白源となった。
1862年(文久2年)には、藩主松平容保が京都守護職に
任命され、蝦夷地の防備だけでなく、京都を警備する
こととなり、その出費を賄うのに、北海道のニシン・
昆布漁は、貴重な収入源ともなっていた。
そして迎えた慶応4年(1868)の戊辰戦争。この時は
すでに徳川幕府は存在しない。戦争となれば、武器
弾薬が要る。文化5年(1808)以来、60年もの間、
会津藩は、ロシアの南下に備えて蝦夷地の警備、
ペリー来航の際は房総半島と三浦半島の警備、江戸湾に
お台場の造営、そして京都守護職と、莫大な出費に
苦しんでいた。それに追い討ちをかけての戊辰戦争
である。「譲り渡すという判断」を下したのは、
はたして誰だったのか。新たな謎である。
NHK/BS「発見!戊辰戦争~幻の東北列藩・プロイセン連合」
会津藩のことなら何でも知っていると自負する私でも
知らなかった。
今回発見された史料というのは、プロイセン(現ドイツ)の
駐日公使ブラントが、本国の宰相ビスマルクに宛てた手紙。
そこには、「会津藩、庄内藩が蝦夷地を売り渡す変わりに
軍事援助を求めてきた」という内容。
アメリカ、イギリス、フランス、ロシアに遅れをとった
ドイツ(当時プロイセン)が、北海道の分捕りに食指を動か
したのだ。そこで 暗躍したのが「ヘンリー・スネル」。
スネルは、会津に赴き、藩主「松平容保」から直々に
「葵の紋入りの短刀」と「平松武兵衛」という日本名まで
貰い、日本人女性を妻に娶り、会津に屋敷までもらっていた。
そして、会津藩に ライフル銃780挺と2万ドル相当の弾薬を、
売り込んでいる。だが、この銃は、新潟港に陸揚げされた時、
官軍に差し押さえられ、分捕られてしまった。
さて、「北海道を植民地化する話」はどうなったかというと、
この進言は本国で却下された。
プロイセンとフランスとの間で「普仏戦争」が勃発。
プロイセンの背後にはロシアが牽制していた。
ロシアは、江戸時代半ばから、度々蝦夷地に接近し、
幕府に通商を求めていた。アメリカのぺりーより先だ。
そのロシアがプロイセンに蝦夷地を取られたら、黙って
はいない。蝦夷地でロシアとプロイセンの戦争は必須だ。
「今、ロシアを刺激してはいけない」と、ビスマルクは
判断して却下したのだった。日本にとっては、まことに
幸いだった。
北海道には「死」のイメージがつきまとう。
「函館戦争」で「土方歳三」「中島三郎助父子」が
戦死した。私の先祖の一人も函館戦争に参加して
行くへ不明になっている。
戦後まもなくの「洞爺丸沈没事件」。たしか「支笏湖」
から名づけた「支笏丸事件」もあったはずだ。ネットで
検索しても出てこないが、「支笏(しこつ)」が「死骨」に
通じるので、船の名前を改名したという記憶がある。
中学の頃読んだ原田康子の『挽歌』で「釧路」を知った。
桂木の妻が自殺したのが風蓮湖。「挽歌」とは「葬送の歌」とも知った。
そして映画『飢餓海峡』『網走番外地』『北の蛍』。
原田康子が30年ぶりに書いたという長編『星の岬』。
さらに 渡辺淳一の『阿寒に果つ』は、当時、私も
小説のモデルと同じ「純子」という女性にふりまわされて
いたから、主人公(=作者)と自分を重ね合わせていた。
同じく渡辺淳一の『無影灯』は、癌に冒され、死を悟って
支笏湖に身を投げる医師の壮絶な死。その遺書が泣けた。
支笏湖も水中に枯れた木の根が沈んでいて、それに
ひっかかって遺体は上がらないのだという。
「北の漁場」の歌詞ではないが、北海道は「男の死に
場所さァ」だ。昨日もカラオケで歌ってきた。
年末、忘年会シーズン。ひと昔前は、ど演歌が巾を
きかしたものでござんす。
「人生劇場」「傷だらけの人生」「王将」「柔」
「残侠子守唄」そして「風雪子守唄」。皆 尺八が
よく合う。それがどうでござんしょう。今の世の中
右を向いても左を向いても 横文字ばかり。
義理がすたれば この世は闇だ。「暴対法」とかで、
ヤクザがすたれれば、演歌もすたれる。尺八の将来も
真っ暗闇じゃござんせんか。
こんなことを申し上げる私も、やっぱり古い人間で
ござんしょうかねえ。
布施明の『霧の摩周湖』。
S41(1966)年、私が高校3年 17歳の時、大ヒットした。
霧にだかれて しずかに眠る
星も見えない 湖にひとり
ちぎれた愛の 思い出さえも
映さぬ水に あふれる涙
霧にあなたの 名前を呼べば
こだませつない 摩周湖の夜
あなたがいれば 楽しいはずの
旅路の空も 泣いてる霧に
いつかあなたが 話してくれた
北のさいはて
周湖の夜
「霧に抱かれて」が「君に抱かれて」とも聞こえる。
私が高校3年の時、17歳で自殺した青年の手記を読んで
感化された。青年は「摩周湖」に飛び込んだのだ。私も
「医学部へ行け」という親の期待に応えられず、将来に
絶望して、摩周湖に行ってみた。「こんな天気のいい日は
年に数日もない」とガイドが言うほどの真っ青な空と湖。
その時、「自分は“晴れ男”だ」と実感した。
ここに飛び込むと、遺体が上がらないという。自殺者
急増で、透明度日本一を誇っていた「神秘の湖・摩周湖」の
透明度が下がったとガイドの説明。
「遺体を餌にして魚が増えたため」というガイドの話は、
私にとって「屈原を諌めた漁夫」の声に聞こえた。
それを聞いて私は自殺を思いとどまった。「危険な17歳」
と騒がれた時だった。
一休も17歳で、将来を絶望して瀬田川に飛び込んだ。
「観音の慈悲あれば、救われよう。たとい、この身が
魚類の餌になろうとも本望」と。人は生かされているのだ。
原田康子の『星の岬』。「10年の歳月が、景色も人の心も
なにもかも変えてしまった」という下りに、今救われている。
「猫にごはん(小判)」「馬の耳にピアス(念仏)」
「猿に にぼし(烏帽子)」「犬に珊瑚 (論語)」。
なんて“ことば遊び”していて、思いついた。
「豚に真珠」は「豚と心中」。これ「頓死」。
ところで「頓死」って?漢和辞典には載っていない。
国語辞書には「にわかに死ぬこと。急死」とある。
「頓」には「ととのえる。とどまる」と「こわす、
やぶる」。さらに「鈍い」と「すぐに、急に」の
相反する意味があるそうだ。
「禿(とく)」に「ハゲ」と「かむろ」の相対する
意味があるのと似ている。不思議な字だ。
虚無僧の歴史を辿ると、二人の「頓阿弥」が
出てくる。一人は、「虚無僧の由緒」を書き記した
『虚鐸伝記国字解』の表書きに「頓阿が伝えた」と
ある。もう一人は、室町時代の連歌師で「頓阿の
尺八」というのが、静岡の寺に伝来している。
美川 憲一。本名は「百瀬 由一」とは知らなんだ。
「百瀬芳童」という尺八家がいた。製管もしていた。
「芳童」銘の尺八が、先日、ネット・オークション
でも60万の高値で出ていた。
さて、美川憲一の芸名は、岐阜県を流れる木曽川・
揖斐川・長良川の3つの“美しい川”にちなんで
付けられたとか。それとは裏腹に「美川憲一」の
歌は男女の仲をストレートに表現していて、陰が
ある。
「女の朝」「お金をちょうだい」など5曲がNHKで
放送禁止になったそうな。
私のカラオケのオハコは『さそり座の女』。
いいえ私は さそり座の女
お気のすむまで 笑うがいいわ
あなたはあそびの つもりでも
地獄のはてまで ついて行く
思いこんだら
いのち いのち いのちがけよ
そうよ私は さそり座の女
さそりの星は 一途な星よ
いいえ私は さそり座の女
お気の毒さま 笑うがいいわ
女のこころを 知らないで
だまして汚して傷つけた
ばかな男は
あなた あなた あなたなのよ
そうよ私は さそり座の女
さそりの毒は あとで効くのよ
紅茶がさめるわ さあどうぞ
それには毒など 入れないわ
つよがり言っても
おんな おんな おんななのよ
そうよ私は さそり座の女
さそりの星は 一途な星よ
蠍座は10月24日~11月23日生まれの人。
『さそり座の女』の歌詞の通り、「素朴でまじめ。
思い込んだら非常に一途」だそうだ。言ったことを
そのままの意味でとらえる。だからダジャレは苦手。
ダジャレが好きな「みずがめ座」とは相性が悪い
そうだ。
ムム、思い当たる。
「林住期」(りんじゅうき)。「臨終期」ではない。
バラモンの「マヌの法典」に、人生100年を4つに区分し、
25歳までが「学生期」。次の50歳までが「家住期」。
働いて収入を得、家を持ち、結婚して子供を作り、妻子を
養うことに専従する期間。
その後、50歳からは、家を出て林に住む「林住期」。
子供も独立しているので、妻の世話は子供に任せ、財物も
捨て、自分の本当にやりたかったことをする。生活の足し
にもならぬことに真剣に取り組む。
そして、最後の25年(75~100歳)は「遊行期」だそうだ。
もう一切のものを捨てきる。
私は、まさに50歳で、家を出(追い出され)、財物を捨て、
(取り上げられ)。菰むしろで寝泊りする虚無僧となった。
自分探しで、本当にやりたかったことをやって生きている。
こんな、わがまま贅沢はない。正にバラモンの修行僧だ。
願望はあってもできない人達からはうらやましがられている。
ところで、古代インド人の平均寿命は、50歳までいかない。
バラモンは、カースト制の最高位。所詮、金持ちの楽隠居
の話。生活苦にあえぐ一般庶民の話ではなかった。
私も実はそうか?。最近道楽に見られているようだ。いかん
いかん原点に帰らねば。