ケイの読書日記

個人が書く書評

倉知淳 「片桐大三郎とXYZの悲劇」

2016-08-22 10:09:26 | 倉知淳
 たかさんがブログで褒めていたので読んでみました。なるほど、去年、評価が高かっただけあって面白い。

 「ぎゅうぎゅう詰めの殺意」→「Xの悲劇」 「極めて陽気で呑気な凶器」→「Yの悲劇」 「途切れ途切れの誘拐」→「Zの悲劇」 「片桐大三郎最後の季節」→「ドルリー・レーン最後の事件」というように対応している。

 エラリー・クイーン版のドルリー・レーンは、聴力を失って引退したシェイクスピア俳優だが、倉知淳版では、聴力を失って引退した歌舞伎出身の時代劇スター・片桐大三郎が探偵役になっている。彼の耳となって、パソコンでキーボードをたたき、大三郎のタブレット端末に文字を送るのは、のの子。彼女もかわいい。
 ただ…、時代劇スターというのが、今の若い人にはピンと来ないんじゃないかな。名前が思い浮かばないよね。それだったら、歌舞伎俳優にした方が良いんじゃないかな? いや、能役者の方が、格調が高いかも。

 キャラで読ませる作品かと思ったが、そうではなく本格物として優れている。特に、2作目、3作目。
 2作目の「極めて陽気で呑気な凶器」は、「Yの悲劇」と同じくウクレレが凶器だが、なんでこんな物を凶器に?といった疑問や、矛盾だらけの状況を、キレイに解き明かしてくれる。ああ、こうすればピタッとパズルはハマるのだと、読後スッキリする作品。

 3作目の「途切れ途切れの誘拐」も、ベビーシッターを殺し、赤ん坊を誘拐した犯人からの身代金請求の電話が何度も途切れる、という見方によればコミカルな状況がなぜ起こったのか? それを解き明かす過程が見事。
 ただ、読後感は悪い。最低な気分。犯人は、自分の命で罪を償うしかない犯罪。


 読んだはしから内容を忘れてしまう私だけど、「Xの悲劇」「Yの悲劇」は覚えている。特に「Yの悲劇」は名作中の名作だと思う。でも「Zの悲劇」はキレイさっぱり忘れている。「ドルリ・レーン最後の事件」に至っては未読。いけませんねぇ。こういった古典は、しっかり押さえておかないと。
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群ようこ 「三人暮らし」

2016-08-16 14:14:59 | 群ようこ
 先回の群ようこさんのエッセイ『財布のつぶやき』で、真剣に仲の良い女3人で暮らすことを考えているとの記述があったので、この『三人暮らし』という本の中には、その顛末が書かれてあるのか…と期待して読んだが違った。これは短編小説集。フィクション。

 群ようこって、エッセイは面白いが、小説はイマイチなんだよね。この短編集も、残念ながらそう。

 独立したての若い女の子たち。75歳すぎて助け合いながら暮らす老女たち。それぞれ一人暮らししていた姉妹が、それぞれリストラにあい実家に戻って母親と3人暮らしになる話。などなど、十組十色の三人暮らしを書いている。

 他にも…バリバリのキャリアウーマンで編集者として働いている姉の所に、旦那とケンカしたと言って妹が子ども(編集者にとっては姪)を連れて転がり込んでくる『異物』という話がある。生活パターンが全く違うし、子どもが苦手な編集者は、最終的には二人を家から放り出して、せいせいする。
 ドラマでは、ここで、仕事ばかりしている編集者と、大人不信になっている姪っ子の心が通い合い…というストーリーになるのだろうが、群ようこは、きっぱり子ども拒否。

 そうかというと『友だちではない』という短編もある。仲良い友人3人が、素敵な都心の外国人向けのマンションに住んでいたが、その中の1人が結婚しマンションを出たので、新しい住人を募集した。そうでないと、3等分している家賃が2等分になり、高すぎて払えないから。
 でも、その新しい住人がストレスになって…。
 結局「あの人は、ただの同居人。友達ではない」と割り切ることになる。必要に迫られればスパッと割り切ることができるんだろうか? 私には無理のような…。

 だいたい、部屋をくじ引きで決めて文句を言わない、という事が信じられない。南向きの部屋と北向きの部屋だったら、家賃の負担が違うのは当たり前だと思うけど。不動産屋に、それぞれの部屋の価値を査定してもらった方が良いと思うよ。

 こうやってブツブツ文句を言う私には、ルームシェアは出来ないね。
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角田光代 「巡る」

2016-08-11 09:14:42 | 角田光代
 これも、前回ブログで紹介した『かなたの子』の中の1作品。子どもを育てている母親にとって、身につまされる話になっている。

 〝私”が目覚めると、見知らぬ4人の顔が、私をのぞき込んでいる。どうやら私は、登山の途中で気を失って倒れたらしい。でも、どうしてここにいるのか分からない。そうだ!少し思い出してきた。パワースポット巡りツアーに参加しているんだ。でも、どうして参加したんだろう?

 不安で安定しない書き出しで、この短編は始まる。

 私を含めた5人で、パワースポットとして有名なM山の山頂にあるお寺をめざす。その間、5人は世間話や自分の身の上話を始める。でも、どうもチグハグで奇妙な違和感を覚える。話しながら登っているうちに、だんだん分かってくる。自分を含めたこの5人は、何か取り返しがつかない事をして、許しを乞うためにここにいることに。

 

 私の愛しい娘・なつきは、どこにいるんだろう? なつきのオムツを外そうと苦労していた頃、夫が離婚したいと言ってくる。どうやら、風俗嬢に夢中で、彼女と結婚したいらしい。頭にきて怒鳴り散らしたが、夫の心は戻らず、多額の慰謝料と養育費をもらう条件で離婚。しかし、全く支払われず、幼いなつきをかかえ、私は働きだす。
 仕事は大変だが、なつきのためにと、仕事家事育児をかんばるが、なつきは反抗するばかり。
 せっかく作った料理をわざと落とす、ゴミ袋を破いて中のゴミをまき散らす、大声を張り上げて泣く。泣く理由なんかないのに、私を困らせるためだけに、泣く。

 気が付けば、なつきはひっくり返って泣きわめいている。身体には赤や青のあざが。背中には引っかき傷。これ、誰がやったの? 先生?子ども? 私のはずはない。私の手は赤く熱を持って、じんじん痺れているが、私のはずがない。
 どうして、何もかも上手くいかないんだろう。

 一生懸命がんばっているのに、何もかも上手くいかない、報われない。こういった焦燥感は、子育てをしているすべての母親が感じているだろう。

 
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角田光代 「かなたの子」

2016-08-06 10:31:31 | 角田光代
 8つのホラーが載っている短編集。ホラーというより、日本の土着信仰の話かな? 先回、ブログにUPした『おみちゆき』は、この中の1作品。

 表題作の『かなたの子』は、そんなに良いとは思わなかった。印象に残ったのは『前世』。
 貧しい戦前の日本。ある寒村で、よく当たるという評判の占い師の所に、一人の母親が訪ねていく。一緒に連れていかれた女の子は、ヘンな白昼夢を見る。
 自分が、母親らしい女に手を引かれ、夜道を歩いている。川べりに着くと、女は自分を抱きしめ、さっと身を離すと、傍らにあった大きな石を自分の頭の上に振り上げ…
 女の子は、それを前世の記憶だと感じた。

 時は流れ、女の子は、隣村の自分の家と同じように貧しい家の嫁となる。じじ、ばば、自分たち夫婦、夫の弟妹、そして子供が次々生まれる。家族が多いので、ご飯はほんのちょっぴり。最初のうちはそれでも、食べるものはあった。しかし、天候不順が続き、作物が育たず、村の人々は飢えに苦しむ。
 嫁は、姑に命じられる。「みんな、やってることだ」  そう、村の中を見渡しても、子供はめっきり減っている。特に、女の子が。
 嫁は、子供の一人を連れ、川辺に行く。我が子をぎゅっと抱きしめ、その甘い匂いを嗅ぎ、ぱっと身体を離して、傍らにあった大きな石を振り上げ…
 
 その時、嫁は一瞬で理解する。子供の時、見た白昼夢は前世の事ではない、今世の事だった、いや、前世も来世も同じことを繰り返すのか…。


 間引きって、避妊方法が確立されてなかった時代、生まれてきた赤ん坊を、乳を飲ませる前に窒息死させて葬ることだと思ってた。乳を飲む前の赤ん坊は、間引きをしても人殺しにはならない。でも、こんなちゃんとした子供でも、間引きされていたんだ。


 そういえば『ヘンゼルとグレーテル』の童話も、飢饉で食べるものに困った両親が、二人を森に捨てに行く話だった。
 世の東西を問わず、食糧難になれば、子供は捨てられたり殺されたりする。
 いや、子供だけじゃない。年寄りも、姨捨山の伝承は日本各地に残っている。探せば、世界中にあるだろう。

 でも、彼ら彼女らは、怨んでなかった。理解してたと思う。仕方がないことだって。自分が死ぬことは、誰かが生きることだった。自分が生を終えることは、何かをつなげていく事だった。
 
 現代では、とうてい受け入れられない考えだが、大昔、飢饉が身近な時代では、それが正しかったんだろう。
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角田光代 「おみちゆき」

2016-08-01 16:15:48 | 角田光代
 即身仏に題材を取っている短編。角田光代は上手だから、すごく怖い。

 即身仏って、大昔に読んだ『湯殿山麓呪い村』に出てきて、へぇー!こんなミイラみたいなものが日本にもあったんだ、と驚いた覚えがある。
 エジプトのミイラは死んだ後、ミイラ化される。しかし、日本の即身仏は、お坊さんが衆生救済を願い、生きたまま自分の肉体をミイラにすること。遺体がミイラ化した後、掘り出され、ご本尊として奉られた。
 当然、よほど強い意志がない限り、できないよ。

 食事は、木の皮や木の実で、脂肪を燃焼させ、水分を減らし、生きている間に身体を腐敗しにくいミイラ状態に近づける。地下に穴を掘り石室を築き、そこに入る。竹筒で空気穴を設け、行者は断食しながら鈴を鳴らし、息絶えるまで読経する
 つまり、鈴が鳴っている間は生きている訳で、それを確認するため『おみちゆき』の主人公たちは、夜中に埋められた石室の所に行き、鈴の音を確認し、音がしなくなったら白い布を空気穴の竹筒にまくのだ。今度は本当にすべて土で埋めるために。

 4年後、お坊様は掘り起こされた。素晴らしい即身仏になっているかと期待したが…ああ、こりゃあ、だめだ
 枯れ枝のような腕は、頭上に向けて上げられていて(そんなスペースが石室のなかにあったんだろうか?)5本の折れ曲がった指は、思い切り開かれていた。まるで、「ここから出してくれ!!!」と叫んでいるように。
 本当に評価が高い即身仏は、両手を印に結んで立派なお姿で、そうでなくてはご利益も望めないらしい。

 主人公は、大学受験のため東京に出てきて、そちらで就職し結婚し、即身仏の事は忘れてしまった。
 でも、子供と一緒に入った見世物小屋で、あの即身仏と再会する。悪漢のミイラとして、見世物小屋に売り飛ばされていたのだ。かわいそうに。村の守り神になろうと、苦しむ衆生を救おうと、即身仏を志願したのに。
 日本には今、17体の即身仏が現存しているらしいが、苦悶の表情だったため、印を結んでいなかったため、即身仏になりそこなって打ち捨てられたミイラは、その何倍もあるんだろうね。
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