ケイの読書日記

個人が書く書評

小泉八雲 「ろくろ首」

2020-11-27 16:57:35 | 小泉八雲
 「ろくろ首」というのは、私は、首がビローンと伸びる妖怪の事だと思っていたけど、この八雲の話のように、首が胴体から離れて飛び回る「ろくろ首」もいるんだね。なんだか、そっちの方が怖いような…。
 河童のように、日本各地で色々地域性があるんだろうか? この話のろくろ首は、甲斐の国の産です。今の山梨県。

 昔、勇猛果敢な武士だった男が、出家して僧となり、全国を行脚する。途中、甲斐の国を訪れた時の事。山奥で日が暮れてしまい野宿していると、木こりが通りかかり「この辺は妖怪が出て物騒なので、粗末ですが我が家へお泊りください」と言ってくれるので、世話になることになった。
 木こりにしては物腰が上品なので、昔はそれなりの身分の人であろうと、話を向けると…。

 首が胴体から抜けて飛び回るタイプの「ろくろ首」は、首が無い状態の胴体を、元の場所から動かすと、首が元に戻れずマリのように床をはね、息が絶えて死ぬらしい。うーん、ろくろ首も命がけで首を空中遊泳させるんだね。首が胴体から離れるメリットってあるんだろうか?
 それとも本人には不本意ながら、どうしても夜になると首が離れてしまうんだろうか? 
 生まれつきなのか、悪行の報いなのか、それとも他の理由なのか…、それについては書かれていない。
 
 日本の民話って、仏教の因果応報の教えに強く影響されているから、この「ろくろ首」も、以前の身分が高く良い暮らしをしていた時、とんでもなく悪い事をやったんだろう。
 さて、「ろくろ首」になってしまうほどの悪行ってなんだろうね。興味あります。
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小泉八雲 「食人鬼」

2020-11-20 16:08:14 | 小泉八雲
 「耳なし芳一のはなし」を書いた小泉八雲(帰化前はラフカディオ・ハーン)の短編。まあ、どの怪談も短編だけど。

 上田秋成の『雨月物語』の中に、人を食う鬼の話が出てくるので、私はそれをベースにしたものかしら?と思って読んだが、普通の食人鬼の話だった。
 生きている時、ただお金が欲しいが為に読経も引導もしていた僧が、自身が死ぬと、その金銭への妄執から食人鬼になってしまい、村に死人が出れば、その死骸を貪り食う因果に落ちてしまった…という話。
 それで食人鬼になるなら、世の中のほとんどの坊主は食人鬼になってしまうだろうね。お金が欲しくて読経や引導するなんて、当たり前じゃん! 拍子抜けしちゃう。
 食人鬼になるなら、もっと悪行を重ねなければ。例えば、僧でありながら人を殺す、人肉を食べる、などなど。でも、大飢饉の時なんかは、人肉を食べなければ死んでしまうので仕方ない。仏さまも、地獄の閻魔様も、許してくれるよ。

 『雨月物語』の方の話は、もっとロマンチック。山奥の寺にいる僧のところに、美しい童が奉公に上がり、僧は彼を寵愛した。しかし流行り病で、その美童が死んでしまった。僧は嘆き悲しみ、愛欲の虜となって、あろうことかその美童の亡骸を食べてしまう。それからだ。周辺の村々に死人が出ると、食人鬼があらわれ…。

 死んだ美童の亡骸を食す、というより、死姦するという事なんだろうか。 人が死ぬと色んな汚物が出てくるから、綿を詰めたりする。死体を弄る行為は、すごく汚い気がするけど、土葬が一般的だった昔、若い女性が死んだりすると、死体をイタズラされないように、身内がしばらく墓を見張っていたらしい。
 
 まあ、昔は人が死ぬ場所も病院ではなく自宅で亡くなったから、死がもっと身近だったんだろうね。でも…想像するだけでグロテスクだよ。
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太宰治 「富嶽百景」

2020-11-13 14:25:47 | 太宰治
 実はこの短編には、すごく思い出がある。高校の時、現国の試験に、この短編の一部分が出題されたのだ。それだけだったらキレイさっぱり忘れるだろう。
 しかし、この作中に「御坂峠から見た富士は、昔から富士三景の一つに数えられているが、私は好かない。まるで風呂屋のペンキ絵だ。どうにも注文通りの景色で、私は恥ずかしくてならなかった」といった意味の記述があり、その「恥ずかしくてならなかった」という箇所が問題に出され、私の隣の席の真性理系の秀才クンが、こんな問題、分かる訳ないだろう!!とえらく怒っていたのだ。
 45年も前の話だが、鮮明に覚えている。あの子、どうしているだろう。一流企業に勤めただろうが、もう定年だね。

 話を戻そう。この短編は、昭和13年、太宰が師事している井伏鱒二が滞在している御坂峠に会いに行く時の話。(太宰の作品に漂うほのかなユーモアは、井伏の影響なんだろう。特に中期の作品)
 井伏が自宅に戻っても、太宰はそのまま滞在を続け仕事する。彼が御坂峠にいることを知り、地元の文学青年たちが集まって来て、先生先生と彼を呼ぶ。
「私には誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて心もまずしい。けれども苦悩だけは、その青年たちに先生といわれて、だまってそれを受けていいくらいの苦悩は経てきた。たったそれだけ。わら一すじの自負である。けれども、私はこの自負だけは、はっきりと持っていたいと思っている。わがままなだだっこのように言われてきた私の、裏の苦悩を、いったい幾人知っていたろう。」(本文より)
 ああ、カッコイイねえ。青年たちが引き付けられるのも分かるなぁ。

 冬となり、井伏がもってきた太宰の結婚話が、なんとかまとまりそうな所で、この短編は終わる。結婚相手となる娘さんの御母堂が「あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえお持ちなら、それで私たち、けっこうでございます」と言う。ああ、なんて気品に満ちた言葉だ。太宰も感激している。でも、最終的には、彼は彼女と結婚しても、他の女の人と心中しちゃうんだよね。

 話はガラッと変わる。私は、名古屋市中区富士見台という所に友人がいて、年賀状を書く時にいつも「ああ、昔はあそこから富士が見えたんだな」と感慨に浸るのだが、北斎の富嶽三十六景の中の一枚に、この中区富士見台から見た富士の画があるんだ!! この事を知った時、感動した。北斎先生、ありがとう!!
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太宰治 「佐渡」

2020-11-06 16:09:31 | 太宰治
 「佐渡」 そう、なんのひねりもない題名。でも、内容は普通の紀行文とは違う。旅行雑誌などには絶対のらない内容。つまらない、何もない、来るんじゃなかった、という文句ばかり書いている。これでいいのか!

 書かれたのは、日本が日華事変(1937~)から、まっしぐらに太平洋戦争に向かって突き進んでいる頃の話で、作中にも「今は日本は遊ぶ時ではない」という箇所がある。意外に思う人が多いだろうが、太宰治は、結構、戦時下に適応している。決して反戦作家ではないのだ。
 そのせいか、精神的に安定しているこの頃の作品に、スッキリとした名作が多い。「走れ メロス」なんて、この頃の作品。

 この短編は、新潟の高等学校で講演した後に立ち寄った佐渡について書いてある。「死ぬほど寂しいところ」だから、行ってみたいと思ったらしい。失礼な。佐渡に住んでいる人が読んだら怒っちゃうね。

 11月の小雨の降る中、自分で行ってみたいと船に乗ったのに、もう最初から後悔している。そうだよ、太宰。あんたはそういう男だ。「なにをしに佐渡へ行くのだろう。なにをすき好んで、こんな寒い季節にもっともらしい顔をして、袴をはき、ひとりでそんな寂しい所へ なにもないのが わかっていながら」(本文より抜粋)

 佐渡の観光組合の人が、戦後、流行作家となった太宰が「佐渡」という小説を書いていることを知り、よっしゃ!! それで村おこしだ! なんて事を考えても、この小説を読んだら、それでボツだろうね。

 しかし、どうして小説家という種の人たちは、金銭に余裕がないのに旅行したがるんだろうか? しかも一番高い旅館に泊まっている。寂しさ侘しさを味わいたいなら、木賃宿にでも泊ればいいのに。
 しかも蟹、鮑、牡蠣をたらふく食べ、白米を4杯もお代わりしたのだ。その上、宿屋から散策してブラッと入った料亭で、芸者さんまで呼んでいる。その芸者さんの悪口まで書いている。あんた、佐渡にあか抜けた別嬪芸者がいるわけないでしょ!「死ぬほど寂しいところ」に来たかったはずなのに。

 でもまあ、夜中、ふと目覚めて波の音を聞きながら、色んなことを彼は考える。そして「自分の醜さを捨てずに育てていくより他はない」と決意する。こういう所が、太宰だよ。

 
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