ケイの読書日記

個人が書く書評

川端康成 「ゆくひと」

2021-02-19 14:42:21 | 川端康成
 「ゆくひと」との題名なので、死んだ人の話なのかな?と思って読んだら、お嫁にゆくひとの話だった。1940年(昭和15年)発表の作品。
 15歳くらいの少年が、少し年上の親戚のお姉さん(たぶん従妹)にいだく淡い思慕の情を書いてある。

 場所は浅間山の見える軽井沢の、少年の家の別荘。日中戦争はすでに始まっていて、あと少しでアメリカと開戦という時期だが、裕福な家ではまだまだ別荘ライフが楽しめたんだろう。
 少年は別荘のベランダで、もうすぐお嫁に行く親戚のお姉さんと、浅間山の噴火の情景を眺めている。噴火はいつもの事で、緊迫した雰囲気ではない。少年にとって、お姉さんがよく知らない人の所へお嫁に行く方が緊迫した出来事。
 お姉さんは、どうやら小さい頃、お母さんを亡くして暮らしぶりはさほど裕福ではないようだ。だから結婚を断れなかった? それか、戦地に行く男性に是非にと望まれたのだろうか? 当時、赤紙が来た男性から結婚を申し込まれたら、断る事は難しかったようだ。日本国中、そういった結婚はいっぱいあったのだろう。

 実は、川端康成と軽井沢と別荘って、私の中で一本の線で繋がっている。
 私が20歳くらいの時、友人と軽井沢へ旅行に行った。友人のお父さんはNHKに勤めていて、NHKの保養所を従業員家族は安く利用できた。私もそれに便乗して、利用させてもらったのだ。(もちろん家族よりも少し割高な料金だけど)
 憧れで胸を膨らませて降り立った軽井沢の駅は、寂れていて驚いた。でも当たり前か。お金持ちは車で来るんだもの。鉄道なんか乗らないよね。気を取り直して宿泊先に向かって歩き出したが、歩いても歩いても辿り着かない。ひょっとして道を間違えた?と心配した。当時はスマホの道案内もなかったし。小1時間ほど歩いたんじゃないかな? 今では良い思い出です。
 有名な万平ホテルを外から眺め、別荘地をあれやこれや散策し、有名人の別荘を見つけて友人と2人で盛り上がった。その中に、川端康成の別荘もあったような…。

 その時、一緒に行った友人とは、今でも仲良くしています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川端康成 「花のワルツ」

2021-02-05 16:46:52 | 川端康成
 一昔前の少女向けバレエマンガみたい。昭和11年に発表された。あと5年で真珠湾攻撃という時代でも、バレエを習っている女の子って結構いたんだ。

 鈴子と星枝という2人の若いバレエダンサーが出てくる。鈴子は、貧乏な家の娘だが踊る事が大好きで、先生の内弟子となってバレエ教室の手伝いをしながらバレエを続けている。一方、星枝は裕福な家の娘で、勝ち気でムラッ気があり周囲を振り回すが、才能がある。ただ才能が有りすぎて、踊りにのめり込むことができない。バレエにさほど情熱を燃やせない。

 彼らの所属する竹内バレエ団は、知名度も実力もあるのだが、経営状況は厳しい。なぜなら、弟子の南条という才能のある青年バレエダンサーに期待をかけて、5年間ヨーロッパに留学させたのだ。費用は全部竹内先生が出して。そのおかげで家も抵当に入るし、あちこちに借金もできたが、竹内先生は、南条が帰ってきたら華やかにお披露目し彼を中心に据えるので、経営も持ちなおすと信じている。
 その南条が帰ってくることになって…。

 努力の人と才能の人の戦いか…? とも思ったが争いにならない。才能のある人は全くヤル気が無くて。「私は平凡でいたいの。もう一生、二度と踊りませんから」と言って。

 南条を巡り二人の美女の戦いが始まれば、これはもうレディスコミックだが、そんな単純な話ではない。
 この南条の帰国は、洋行帰りといった華々しいものではなかった。日本で多少才能があったとしても、西洋で認められるのは至難の業で、実際、彼は5年間フランスでひどく惨めな生活をしていたらしい。(渡欧する前、バレエ学校への入校手続きをしなかったんだろうか?)
 ろくに食事もとれず、寒さと湿気でリュウマチに罹ってしまい歩けなくなって、松葉杖をついてバレエを断念する所まで追い詰められていた。
 そういった事って多かっただろうね。実家がすごく金持ちで、たっぷり仕送りがある人はともかく、お金をかき集めてなんとかヨーロッパに送り出しても、後が続かない。当時の日本とヨーロッパの為替相場を考えても、相当な資産家じゃないと無理だよ。

 竹内先生は期待をかけていた分、怒り心頭だろう。でも南条本人が一番苦しいんだろうが。
 そんな南条が、星枝の踊りを見て再びバレエへの情熱を取り戻したのだ。そして…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川端康成 「十六歳の日記」

2021-01-29 14:07:34 | 川端康成
 この作品は、小説家・川端康成が商業誌に載せるために書いたものではない。彼が16歳の時書いた、旧制中学時代の日記が10年ほど後に見つかり、そこに少々説明を付け加え発表したもの。
 この人って、本当に肉親の縁が薄いというか、幼い頃に父母姉、そして祖母が亡くなり祖父に育てられたんだ。その祖父とも16歳で死別(満年齢で言えば15歳)。孤児になった。「伊豆の踊り子」の中にも「20才の私は、自分の性質が孤児根性でゆがんでいると厳しい反省をかさね、その息苦しい憂鬱にたえきれないで、伊豆の旅にでてきているのだった」という箇所があり、私はそれを創作だと思って読み飛ばしていたのだが、本当の事だったんだ。
 孤児と言っても、当てになる親戚はいたので、その人に引き取られる。もともと秀才だし、それなりの財産があった家なんだろう。一高→東大と進み、専業作家となる。

 この16歳の日記には、ただ一人の身寄りである爺さんが病に伏し、死んでいく直前の半月ほどの事が書かれている。ユーモラスな所もあるが、気が滅入る。暗い。ヤングケアラーという言葉を思い出した。
 田舎の旧家なので、立派な広い屋敷。あれこれ商売に手を出しては失敗し、そのつど田畑を売る困った爺さんと、彼の孫息子。
 どうしようもない年寄りだが、地元では名士なので近所の人が手伝いに来てくれる。でも、夜中は川端少年が世話をする。「布団、着せて」「しし(おしっこ)させてくれ」「寝返りさせてくれ」などなど、あれこれ要求する。
 ご飯を今たべたのに、まだ食べさせてもらってないって言い張ったり、おしっこさせる時に痛い痛いと騒ぐ。ああ、介護保険の無い時代は、こうやって身内が年寄りの面倒を見たんだ。よくやってるよ。川端少年。えらいよ。
 私だったら「このジジイ、早く死んでくれないかな」と思うだろうが、川端少年は残っているたった一人の身内の爺を、時には無視することもあるが、親身になって世話をする。祖父の死を怖れている。優しい。
 「学校は私の楽園である」とも書いている。学校に行くのが心の支えだ。そうだろうね。こんな家庭環境だったら、学校が息抜きの場になるだろう。

 手伝いに来ている近所のおばさんは、「ぼん(川端少年の事)が出世しなはったら、よろしょまっしゃないか」と言うと爺は「出世いうたかて、たかが知れてるが」と見下すようなことをいう。
 爺さん、あんたの孫息子は、日本の美を追求してノーベル文学賞を受賞したのだよ。見る目がないのにもほどがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

川端康成 「伊豆の踊り子」

2021-01-22 13:54:26 | 川端康成
 ノーベル文学賞作家・川端康成の代表作「伊豆の踊り子」を、私、初めて読みました。ごめんね、皆さま。あきれないでください。「銀河鉄道の夜」のところでも書いたけど、有名すぎて、しかも映像化されている小説って、もうすでに読んでしまったような気がして、手に取る事は少ない。特にこの「伊豆の踊り子」は、昔から何度もアイドル映画としてリメイクされていたから、なおさらなのだ。(私の世代では、山口百恵の伊豆の踊り子が一番印象に残っている)
 でも、今回読んで、この作品がどうして、美少女アイドル登竜門みたいな扱いになっているのか、理解できた。だって本当に初々しいんだもの。伊豆の踊り子が。

 踊り子がいる旅芸人一座は、40代の女一人、若い女3人(踊り子を含む)、20代の若い男一人のすごくささやかな一座。この芸で食べていくという悲壮感はなく、他に収入があるんだろう、のんびり旅をしながら芸を披露して小銭を稼いでいる。
 だから彼らが泊るところは、当然安い木賃宿。でも明るい。若い男はどうも良家の出身らしいが、訳ありで旅芸人をしている。踊り子は彼の妹らしい。そういった興味深い事情は詳しく書かれておらず、学生と旅芸人一座のほんの数日の道中、学生と踊り子の間の淡い恋心が瑞々しい。

 踊り子は黒髪がたっぷり豊かなので、学生には16,7に見えていたが、まだまだほんのお子様。旅館のお湯につかっていた学生を見つけた踊り子は、自分が入浴している共同湯を飛び出して、素裸のまま「学生さん、学生さん」と手を振る。現代なら児童ポルノと言われかねない描写だが、学生さんはその女の子の若桐のようなすらりとした裸ん坊をながめて、心に清水を感じ、ことこと笑う。うん!学生さん、健全です。欲情しないでよかった!!

 幼い踊り子(小学校高学年?中学?)が一高(今の東大教養部)の学生さんを見つめる目は、さぞキラキラしているだろうね。旅芸人と言えば、大正時代ならなおさら見下されただろう。小説中にこんな箇所がある。一行が下田に行く途中、ところどころの村の入り口に立ち札があった。「物乞い、旅芸人、村に入るべからず」 ひどいね。しかし定住し農業を営むのが良しとされた時代、こんなものかとも思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする