前半のエッセイは、朝日新聞の朝刊に2000年1月から7月まで連載されたもの。後半は、いろんな雑誌に書いた文章で、初出が付いていないので、いつごろの文章か分からないが、かない古いものも含まれていると思う。なんせ、佐野洋子は昭和ヒトケタの人だから。
どの話を読んでも面白い。小説じゃなくてエッセイなので、基本は本当の話だろうが、うっそーーー!!と驚く話もある。例えば『1巻の半分』の中の一場面。
X誌特別号に「この百年の文学」という特集がありまして、大変権威ある評論家が「まず、プルーストの『失われた時を求めて』は外せんだろうなあ」とか言い、それを受けて「ああ、これは外せませんなぁ」と受けたのも、大評論家でした。「○○さん、これ全部読みましたか?」「いや、読んでない」「僕も。アハハ」
それでも『失われた時を求めて』は、20世紀を代表する文学の第2位だかにランクづけられていました。(本文より)
うっそーーー!! ホントかよ?! 大長編ってことは知ってるけど、文芸評論家が、それも自称ではなく、文芸論でメシを食っている文芸評論家が、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいないって? もちろん、私は読んでいません。
でも、別の箇所で、昔の人は本を読んでいたんだなと感心する場面もある。
『チボー家の人々』のジャックについて、『アンナ・カレーニナ』のウロンスキーについて、私たちは延々と、偉そうに議論したことは、思い出すだけで恥ずかしいのであるが、ちゃんと記憶にある。(本文より)
『アンナ・カレーニナ』はともかく、『チボー家の人々』って、そんなに読まれていたんだろうか?私たち、という事は、美大生の集まりだと思う。この小説も有名な大長編だという事で名前だけは知っているけど、もちろん私は読んでいない。
そういえば、北杜夫の小説だかエッセイに『チボー家の人々』って出てきたような…。戦後の混乱期に青春時代を過ごした人たちのバイブルだったんだろうか?
戦後の混乱期と言えば、こんな記述もある。
18才で上京したら、予備校に徳川さんという女の子がいて、その人は家康の直系だったそうで、家康の子孫に私たちは「アンタ、そのバケツのデッサン狂っとるよ」などと平気で言ってました。(本文より)
織田信成の事もあるし、いやはや、いい時代になったもんです。
どの話を読んでも面白い。小説じゃなくてエッセイなので、基本は本当の話だろうが、うっそーーー!!と驚く話もある。例えば『1巻の半分』の中の一場面。
X誌特別号に「この百年の文学」という特集がありまして、大変権威ある評論家が「まず、プルーストの『失われた時を求めて』は外せんだろうなあ」とか言い、それを受けて「ああ、これは外せませんなぁ」と受けたのも、大評論家でした。「○○さん、これ全部読みましたか?」「いや、読んでない」「僕も。アハハ」
それでも『失われた時を求めて』は、20世紀を代表する文学の第2位だかにランクづけられていました。(本文より)
うっそーーー!! ホントかよ?! 大長編ってことは知ってるけど、文芸評論家が、それも自称ではなく、文芸論でメシを食っている文芸評論家が、プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいないって? もちろん、私は読んでいません。
でも、別の箇所で、昔の人は本を読んでいたんだなと感心する場面もある。
『チボー家の人々』のジャックについて、『アンナ・カレーニナ』のウロンスキーについて、私たちは延々と、偉そうに議論したことは、思い出すだけで恥ずかしいのであるが、ちゃんと記憶にある。(本文より)
『アンナ・カレーニナ』はともかく、『チボー家の人々』って、そんなに読まれていたんだろうか?私たち、という事は、美大生の集まりだと思う。この小説も有名な大長編だという事で名前だけは知っているけど、もちろん私は読んでいない。
そういえば、北杜夫の小説だかエッセイに『チボー家の人々』って出てきたような…。戦後の混乱期に青春時代を過ごした人たちのバイブルだったんだろうか?
戦後の混乱期と言えば、こんな記述もある。
18才で上京したら、予備校に徳川さんという女の子がいて、その人は家康の直系だったそうで、家康の子孫に私たちは「アンタ、そのバケツのデッサン狂っとるよ」などと平気で言ってました。(本文より)
織田信成の事もあるし、いやはや、いい時代になったもんです。