ケイの読書日記

個人が書く書評

角田光代 「坂の途中の家」 朝日文庫

2023-07-10 17:15:39 | 角田光代
 母親が8か月の乳児を風呂場で溺死させた事件の、補充裁判員となった主人公・里沙子は、容疑者の証言・容疑者の周囲の人たちの証言を聞くうちに、彼女の境遇に自分を重ねていくようになる。

 里沙子と被告人・水穂の境遇というのは、確かによく似ている。二人とも小さな女の子がいて、出産前は働いていたが今は専業主婦。二人とも、子どものころから成績が良く、高校卒業後、上京して大学入学。ただ、二人とも育った家庭は、地方ではありがちな保守的な家庭で、東京の大学に進むことについては親は良い顔をしなかった。しかしちゃんと仕送りはしてくれた。
 大学では友人もでき、学生生活を謳歌。卒業後は、うるさい地元には戻らず東京で就職。つきあっている男性と結婚し、子どもにも恵まれる。
 本当にどこにでもいる人なんだ。

 ただ少し一般的でないと感じるのは、二人とも子育てに全く実家の母親の手を借りなかったこと。赤ちゃんを産んだことのない人には分からないかもしれないが、これって本当に大変なことなんだ。
 実家の母親と折り合いが悪い人は大勢いるが、出産なんて言う緊急事態には、親を頼る人がほとんどじゃないかな?出産時にも顔を会わせたくないほど母親が嫌いって、どういうケース?
 母親がアルコール依存症でいない方がまし、別の男性と再婚していてもう実家とは呼べない、新興宗教に凝り固まっていて自分も入信させられる…とか思い浮かばない。

 この里沙子のお母さんや水穂のお母さんは、ただ娘と価値観が合わないだけで、ここまで娘たちに嫌われるのは気の毒な気がする。特別に片寄った考え方をしている訳ではない。地方で生まれ育ったこの年代の女性たちとしては当たり前の事だろう。

 それにしても、この水穂という人は、同情すべき余地はあるがアンバランスな気がする。経済的な理由で挙式しなかったのに、世田谷に一戸建てを購入って不思議。そんなに簡単に買えるものなの? 育児ノイローゼというより、将来的な経済的不安も大きな理由のような気がするなぁ。
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角田光代 「さがしもの」 新潮文庫

2019-12-31 09:56:36 | 角田光代
 旧題は「この本が世界に存在することに」。そのタイトルからも分かるように、角田さんと本との蜜月が書いてある。
 本当に角田さんは本が好きだなぁ。私も本が嫌いではないが、本を所有したいとは、そんなに思わない。だから、図書館で借りても電子図書でもOK。でも角田さんのような熱愛派は、古本屋に売る事すらも抵抗があるんじゃないかな。でも古本を買うのは好きなんだよね。

 第2話「だれか」の中に、片岡義男を愛読する若い男が出てくる。片岡義男の描く世界にあこがれ、彼の描く主人公に共感し、自分を主人公になぞらえてウットリした。だた日々の生活が彼を片岡義男から遠ざけた。生活に追われ、本など1ページも読まなくなる。
 そして彼は恋をし、その恋に破れ、南の島に一人旅に行こうと決心する。旅のお供に文庫本を買おうと本屋に足を踏み入れて、彼は再会する。片岡義男に。「何かに強くあこがれて、そのあこがれの強度によって、あこがれに近づけると信じていたころの自分」(本文より)を思い出して…。
 それを買って彼は、タイの小島に行く。帰り際、彼は小島のバンガローの食堂の本棚に、その片岡義男をそっと差し入れる。
 日本に戻って再びあくせく働きだした若い男は、時々その本の事を思い出して、自分の分身が今もその小島のバンガローにいるような気分を味わう。
 これ、いいなぁ。本当に素晴らしい。ああ、もし自分が南の島に行くようなことがあったら、やってみたいなぁ。

 第8話「さがしもの」も素敵な話。
 死にかけた婆さんは、孫娘に「その本を見つけてくれなきゃ、死ぬに死ねないよ」と言って、ある本を探すことを依頼する。その本は、ある絵描きが昭和25年に出したエッセイで、当然の如く絶版になっており、孫娘は古本屋巡りをするが見つからない。
 そうこうしているうちに婆さんは死ぬが、まだ孫娘は探し続けている。が、彼女が大学3年生の時に、その運命の本に出会う。復刊してくれた出版社があったのだ。
 そして理解した。なぜ婆さんがその本を、死ぬ前に何としても読みたかったかを。この理由がすごく素敵なので、気になる人はぜひ読んでくださいね。


 皆さま、今年も大変お世話になりました。こんな拙い文章を読んでくださって、本当にありがたいです。また来年もよろしくお願いします。良いお年をお迎えください。
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角田光代 「世界は終わりそうにない」   中央公論新社

2017-11-05 14:52:04 | 角田光代
 角田光代のエッセイは好きだが、このエッセイ集は…どうもですねえぇ。たぶんこれは、依頼主の注文や制約が多いからだと思う。オレンジペーシなどに連載されているエッセイは、生き生きしているものね。

 その中で、三浦しをんとの対談『書評の愉しみ」はすごく面白かった。他にもよしもとばななとの対談も載っているが、どうも型にはまっているというか…三浦しおんとの対談の方が、うんと自由。三浦しをんもかなりの読書家らしい。『三四郎はそれから門を出た』という書評集を出版したのを宣伝するため、角田光代X三浦しをんの対談集が組まれたみたい。

 二人の対談は話があちこち飛ぶけど、これがまた本当に面白いんだ!!!
 面白い本より面白くない本の話をする方が好き、というのは二人とも共通している。たしかにそれは理解できる。素晴らしい作品というのは「本当に素晴らしかった」で終わり、それ以上何を書けば良いんだろうと思う。ダメな作品はダメ出しした時の自分の興奮具合を誰かに伝えたくなると、角田さんなど言っている。
 具体的には三浦しをんさんは『ダヴィンチコード』を「なんじゃこれ!」って思っているし、角田さんは『海辺のカフカ』を読んで、本当に分からない、どうしよう!!書評が書けない!と途方に暮れていたとか。
 良かった! 角田さんみたいな優れた読者家が分からないと白旗上げてくれて。そうやってホッとしている読者っていっぱいいると思うよ。

 今年もハルキストの皆さんは、神戸の有名なカフェに集まったんだろうね。村上春樹って、そんなに皆読んでるの?私はエッセイと短編を少々、それから翻訳ものを少し読んだことがあるが、長編は未読。どうしてあんなに売れるんだろうか?皆、読み終えてる?
 村上春樹の本を抱えていると、純文学的な人に見られるからなのかな?いや、失礼。

 また、角田さん、三浦しをんさん、2人とも、長い書評を書く時、エッセイのように自分の思い出から書き始め、後半で本の内容につなげることが多く、三浦さんはそれをダメとハッキリ書いているけど、ダメじゃないと思うけど。私は、そっちの方が好きだなぁ。
 書評専門の人は、最初から最後まで、本の内容について書く人が多いが、それってツマラナイ。
 だから私は、話題の新刊といったタイトルより、誰がその書評を書いているかの方が、興味ある。読む気をそそられる。
 
「自分語り→書評」のパターンは群ようこに多い。だから群さんのブックレビューはすごく面白い。岸本葉子さんなど、根が真面目で横道にそれてはいけないと思うんだろうなぁ。書評に自分語りの部分がほとんどなくて、読んでるうちに飽きてくる。

 でも、依頼主としては、その本を紹介してほしくて書評を依頼するんだろうから、岸本さんのような書評が誠実なんだろうね。
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角田光代 「巡る」

2016-08-11 09:14:42 | 角田光代
 これも、前回ブログで紹介した『かなたの子』の中の1作品。子どもを育てている母親にとって、身につまされる話になっている。

 〝私”が目覚めると、見知らぬ4人の顔が、私をのぞき込んでいる。どうやら私は、登山の途中で気を失って倒れたらしい。でも、どうしてここにいるのか分からない。そうだ!少し思い出してきた。パワースポット巡りツアーに参加しているんだ。でも、どうして参加したんだろう?

 不安で安定しない書き出しで、この短編は始まる。

 私を含めた5人で、パワースポットとして有名なM山の山頂にあるお寺をめざす。その間、5人は世間話や自分の身の上話を始める。でも、どうもチグハグで奇妙な違和感を覚える。話しながら登っているうちに、だんだん分かってくる。自分を含めたこの5人は、何か取り返しがつかない事をして、許しを乞うためにここにいることに。

 

 私の愛しい娘・なつきは、どこにいるんだろう? なつきのオムツを外そうと苦労していた頃、夫が離婚したいと言ってくる。どうやら、風俗嬢に夢中で、彼女と結婚したいらしい。頭にきて怒鳴り散らしたが、夫の心は戻らず、多額の慰謝料と養育費をもらう条件で離婚。しかし、全く支払われず、幼いなつきをかかえ、私は働きだす。
 仕事は大変だが、なつきのためにと、仕事家事育児をかんばるが、なつきは反抗するばかり。
 せっかく作った料理をわざと落とす、ゴミ袋を破いて中のゴミをまき散らす、大声を張り上げて泣く。泣く理由なんかないのに、私を困らせるためだけに、泣く。

 気が付けば、なつきはひっくり返って泣きわめいている。身体には赤や青のあざが。背中には引っかき傷。これ、誰がやったの? 先生?子ども? 私のはずはない。私の手は赤く熱を持って、じんじん痺れているが、私のはずがない。
 どうして、何もかも上手くいかないんだろう。

 一生懸命がんばっているのに、何もかも上手くいかない、報われない。こういった焦燥感は、子育てをしているすべての母親が感じているだろう。

 
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角田光代 「かなたの子」

2016-08-06 10:31:31 | 角田光代
 8つのホラーが載っている短編集。ホラーというより、日本の土着信仰の話かな? 先回、ブログにUPした『おみちゆき』は、この中の1作品。

 表題作の『かなたの子』は、そんなに良いとは思わなかった。印象に残ったのは『前世』。
 貧しい戦前の日本。ある寒村で、よく当たるという評判の占い師の所に、一人の母親が訪ねていく。一緒に連れていかれた女の子は、ヘンな白昼夢を見る。
 自分が、母親らしい女に手を引かれ、夜道を歩いている。川べりに着くと、女は自分を抱きしめ、さっと身を離すと、傍らにあった大きな石を自分の頭の上に振り上げ…
 女の子は、それを前世の記憶だと感じた。

 時は流れ、女の子は、隣村の自分の家と同じように貧しい家の嫁となる。じじ、ばば、自分たち夫婦、夫の弟妹、そして子供が次々生まれる。家族が多いので、ご飯はほんのちょっぴり。最初のうちはそれでも、食べるものはあった。しかし、天候不順が続き、作物が育たず、村の人々は飢えに苦しむ。
 嫁は、姑に命じられる。「みんな、やってることだ」  そう、村の中を見渡しても、子供はめっきり減っている。特に、女の子が。
 嫁は、子供の一人を連れ、川辺に行く。我が子をぎゅっと抱きしめ、その甘い匂いを嗅ぎ、ぱっと身体を離して、傍らにあった大きな石を振り上げ…
 
 その時、嫁は一瞬で理解する。子供の時、見た白昼夢は前世の事ではない、今世の事だった、いや、前世も来世も同じことを繰り返すのか…。


 間引きって、避妊方法が確立されてなかった時代、生まれてきた赤ん坊を、乳を飲ませる前に窒息死させて葬ることだと思ってた。乳を飲む前の赤ん坊は、間引きをしても人殺しにはならない。でも、こんなちゃんとした子供でも、間引きされていたんだ。


 そういえば『ヘンゼルとグレーテル』の童話も、飢饉で食べるものに困った両親が、二人を森に捨てに行く話だった。
 世の東西を問わず、食糧難になれば、子供は捨てられたり殺されたりする。
 いや、子供だけじゃない。年寄りも、姨捨山の伝承は日本各地に残っている。探せば、世界中にあるだろう。

 でも、彼ら彼女らは、怨んでなかった。理解してたと思う。仕方がないことだって。自分が死ぬことは、誰かが生きることだった。自分が生を終えることは、何かをつなげていく事だった。
 
 現代では、とうてい受け入れられない考えだが、大昔、飢饉が身近な時代では、それが正しかったんだろう。
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