古代アッシリアの法律では、娘が強姦されたら
強姦された娘の父親は、犯人の妻、または娘を捕らえて
強姦し返さなくてはならない決まりだった。
古アッシリアは、紀元前1975年頃、
ウル第三王朝の滅亡と前後して
現在のイラク北部に興った王国のようです。
古アッシウリアは、
紀元前1792年から1750年に
現在のイラク南部地域のバニロニア王朝を
支配下に組み込みました。
バニロニア王朝を支配下に組み入れたことで
バニロニア王朝のハンムラビ王が晩年に発布した
ハンムラビ法典の『目には目を歯には歯を』的な考えを
古アッシリアなりに組み入れたようにも思えますが、
しかしなあ、上の古アッシリアの法律、
娘が強姦されたら云々は、
目には目を歯には歯をになって無いような………
百歩譲って、強姦し返しても罪には問わない。
であるならまだしも、し返さなければならないは、
どうなんだろう。簡単じゃないっす。
『しても良い。』と『しなければならない。』
この二つは似てはいますが
二つの間には大きな隔たりがあります。
しても良い場合は、権利を有して
その権利を行使するのもしないのも本人の自由。
し返さなければならないの場合は、強制でしかなくて
復讐心を満たせる。とか、
公平性を得ることができる。とかの
本人がそれによって価値あるものが得られると
感じられるものがなければ苦痛でしかありません。
父親が、し返すことが出来なければ、
その気になれなければ、どうなったんだろう?
罰則があったとするならばもうこれ
父親の復讐心を満たしたり苦しみの救済処置どころか
被害者の父親は二度苦しむことになりそう。
高校二年の初めまで赤点ばかりの生徒が
一念発起して興味が無かった勉強に打ち込み
早稲田だったか慶応だったかに合格した伝説の男は、
六大学野球の早慶戦の応援合戦を見て
自分もあのスタンドで熱狂したい。同じ気持ちを味わいたいと、
自らに課した『しなければならない。』の勉強に向き合って
見事合格した伝説の男がいたように
神戸牛をたらふく食べてみたい。
彼女に素敵なプレゼントをしたい。
そのためにはアルバイトをしてお金を稼がなければならない。
しなければならないの先に何かの大きな喜びがあった場合には、
それは目的に向かって伸びている階段であって
ビクトリーロードのように感じられるかもしれません。
しかし、しなければならないの先に
何の喜びも感じられなかったり、見えていない場合は、
自分から自由を奪う高い障壁と感じるかもしれません。
私達が悩みの状態にある時には、
何々をしなければならない。何々をしてはならない。
何々でなければならない。
何々であってはならない。
そうであることは何々を意味する。
このような強い気持ちの存在があったりするものです。