1956年 東京の巣鴨署は
19歳の少年を放火の罪で逮捕しました。
少年の動機は、近くの小学校がボロボロなので
燃やせば子供達に新しい校舎を
プレゼント出来る思ったとのこと。
当時の巣鴨署の警察官も事件を担当した検事も
こんな幼稚園児の思考のような供述を
そのまま受け入れたのが不思議。
まあ未成年の将来のことを思いやって
少年を反社会的な人格の持主にしたくなかったのかな。
喧嘩等の傷害事件なんかは
双方に言い分があったりするので
どっちが悪いなんてことが
なかなか判断できないこともあるとは思いますが、
上の様な誰が悪いかなんて明らかな放火事件の場合、
優しさが甘さとなり、その甘さが本人の為にならない
可能性だってあると思うんですよね。
学校関係者や生徒達が少年に対して温情判決をと
願い出ることは良しとしても
警察まで少年に対して一緒の姿勢を見せると
少年は、自分のしでかした罪の大きさを
どこまで自覚できるのかと。
信賞必罰。勧善懲悪は、やはり大事かなと。
私は子供の成育環境で
救いとなる優しい母親の存在と
厳しく怖い父親の存在があることが
絶妙のバランスだと思っているので
学校関係者や生徒達が母親的な態度を見せた場合には、
警察や検察には、父親的な態度で接することが
少年の将来にとっては良いことのように思うんですよね。
最近の虐め報道なんか見ても
虐めの加害者を学校関係者が徹底的に庇うどころか
虐め自体を無かったことにしようとしていたりして、
あれ誰が父親的な立場となっているんでしょうね。
学校の虐め問題の対応の仕方が酷いと
虐めの加害者と被害者の問題だけでは済まず、
世間の人達は、良く見ていて
子供達は、特に見ていて
子供達や社会に直ちに悪影響が現れないかも知れませんが
悪影響がジワジワと現れないかなと危惧します。
小さな悪いことを厳しく接したり
しっかりと言い聞かせたりして
悪い芽が育たないように考えたい所です。
将来の日本の国を作っていく国の宝物の子供達が
汚れを落としてもらえず、磨かれずにいると
こべりついたそれを磨いて
奥の輝きを取り戻すのがかなり大変になります。
どこかの国のように輝かないままの宝物が
やたらと目につくようになると悲しいかな。
警察官に停車を求められたことを無視して
逃走を図り、暴走に信号無視で
大事故や人身事故を引き起こし、
車を捨ててさらに逃走するなんて、
若い頃は、やんちゃをするものですが
やんちゃの範疇から完全に逸脱している人間が
ちらほらと現れ始めているのが気になります。