2018年の3月31日に、
善光寺のトップである小松貫主が
セクハラ、パワハラの指摘を受けて
辞任したかと思えば、
2か月も経たない5月15日に、
つい先日に私達が拝観させてもらった
奈良・薬師寺のトップである村上太胤管主が、
週刊誌から女性との不適切な関係について
取材を受けたとして辞任。
二つの有名な寺院のトップが、
同じ時期に、同じような内容で
その座を辞任とあっては、
どうしても注目してしまいました。
この現象、ユングが提唱した
共時性(シンクロニシティ)なんでしょうか。
僧侶がなんてことを。。。と、
ショッキングなことのようですが、
私は結構冷静で、
聖職者ではなくて、仏教に従事する
普通の人間がやったことと捉えているので、
余計な善悪の評価基準は付随していません。
善光寺と薬師寺の僧侶の
普段の様子を知らないのであれなんですが、
現在の多くの僧侶は、
良い車に乗り、お酒を飲み、肉を食らい、
俗物に塗れようが、
宗派からも檀家からもお咎めなしの
暗黙の容認状態の時点で、
宗派は、僧侶に真理を追究し到達することを
求めているとは思えず、
その檀家も僧侶に対して、
そこまでのことを求めていないはずなので、
その時点で、僧侶は、聖職者ではなく
自派宗教に関する葬儀、行事、儀式等を
執り行う職員や事務方と捉えています。
なので私は、辞任は致し方ないにしても
株式会社のトップが起こした場合と
同じような捉え方をしています。
立場がいくらかのブレーキとなっても
普通の人間なのだから、
踏み越えてしまう時は踏み越えてしまう。
真理に到達して体現する如来の域に
人が到達する何てことは、
お釈迦さん以降、
誰一人到達していないことを考えても
普通は無理でしょう。
無理でも僧侶の道を選んだのだから、
追及し続けるべきの意見もあるでしょうが、
追求し続けている期間は、
その人は人間界にあるのですから、
起きるときは起きてしまう。
お叱りを受けるかと思いますが、
僧侶の方々には、
ただの葬儀ビジネス団体に成り下がることなく、
それぞれの宗派なりに、
仏の智徳を学び、理解し、習得し、
迷い苦しみ悩める人々を
少しでも救ってもらえれば、
普段に酒を飲もうが、肉を食らおうが、
俗物に塗れようが、
やるべき時に、やるべきことを、
やれるだけの準備をしておられるのなら、
十二分なようにも思えるし、
尊敬するに値すると思うのです。
片や、私のような仕事は、
人格者や聖職者となって先頭に立ち、
迷い苦しみ悩める人を導き救う仕事ではなく、
その方が持つ鉱山資源(潜在能力)を
本人と協力して発掘するような仕事かと
勝手に理解しているので、
今の所は、
人格者になろうとも思っていませんし、
人格者になりたいとも思っていませんし、
人格者であらねばならないとも
思っていないんですよね。
そのせいか私の人格レベルは、
今だ普通のレベル?
もしかすると、少し足りない?
大分足らないレベルかも知れませんが、
そんな私を受け入れてくれて
長くお付き合いをしてくれている友人達や仲間達、
一緒に問題解決をさせて頂いたクライアントの方々には、
有り難く有難く感じるのです。