アメリカ・シカゴ商品取引所の
「セクハラ防止規則」によると
所内で異性に触れることを禁止しているそうです。
この規則を破ると取引禁止の他、
最高5000ドルの罰金を科せられるとのことです。
セクハラは駄目!は、心から賛成します。
こんなん反対する人っているのかな。
ただ酷いセクハラの行為は、
セクハラと言う言葉が一般的になる前から
猥褻行為として刑事処罰の対象となっていました。
セクハラ問題及び対策は、
それまで刑事処罰の対象とするまでもいかない
異性に対する不快な行為について
防止することだと思うし、
不快な行為をおこなった者への処罰を
所属組織としてどうするか
検討するためのものだと思うのですが、
この線引きが明確ではないし
明確にすることが難しいですよね。
異性、同性に限らず毛嫌いしている奴から
「よっ元気か。」なんて声を掛けられても
「ああ気分が悪い!」ってなるのと同じで、
相手が不快だと思ったらセクハラで
同じことをしても
相手が不快に思わなかったら
セクハラではないので
要は人間関係の問題ですよね。
人間関係において規則が先に来ると
人同士の結びつきを阻害する
大きな要因になるように思ったりするのです。
信頼から人間関係を始めていくのと、
猜疑心、警戒心から
人間関係を始めるとの違いとでも言いましょうか。
最近では、二者間で何の問題とも感じていない交流に
第三者が「あれはセクハラよ!」と介入して
どう対処するのかと会社に報告して
男性を断罪させたなんて話も聞くことが有ります。
こんなことを言うと叱られるかもしれませんが
アメリカは契約社会、個人主義と言えば
聞こえは良いですが、
他人への猜疑心や警戒心から始まる交流で、
無茶苦茶な裁判が繰り広げられているのを聞いても
あれではどんどんとアメリカ社会に
人への猜疑心や警戒心が
育っていくような気がするのです。
行き過ぎた個人主義は
人と人の分断にも繋がりかねません。
これまでの日本の社会は、
他人への信頼から始まる交流だったように思うし、
これから先、
日本の強みである団結心が薄れていった時に
何が起きるのだろうかと懸念するのですが、
何千年で築き上げた価値観が数十年の価値観で
易々と壊れてしまうことなどないと
信じもしたいところです。
一つの出来事、一人の人物に対する
個人の学びを脳内で一般化して
日常を窮屈なものにしているのを
紐解き自由になってもらうのが
催眠療法であり心理療法だとする時、
一つの正しい、もっともな主旨から始まった概念が
本来の主旨以上に幅を利かせ
水戸黄門の印籠の如く力を有した時に、
社会が神経症状態に陥らないかとも懸念するのです。
セクハラには当然ながら反対です。
そしてバランス良く機能することを期待しています。