任天堂の岩田社長が、胆管腫瘍のために亡くなられた。
日経新聞:任天堂の岩田社長死去
かつて任天堂といえば「花札」の会社であった。
それが「花札」から、「ファミコン」の企業へと変わっていった。
(「花札」を遊びととらえるのかは、別として)任天堂は、「遊び」を創造する企業であった。
「ファミコン」への決断は、山内会長によるところが大きいといわれているが、その後の「wii」や「ニンテンドーDS」のヒットは、岩田社長がけん引した事業であったといっても過言ではないと思う。
そう考えると、任天堂という企業は2回大きな「社会的イノベーションを起こした企業」だといえるかもしれない。
1回目は「ファミコン」、そして2回目は「wii」と「ニンテンドーDS」だ。
1回目の「ファミコン」の登場というのは、それまでゲーム喫茶と呼ばれるところにあった「ゲーム」を、家庭で楽しめるゲームへと変えた。
任天堂の「ファミコン(確か「ファミコン」は任天堂が商標登録していたと記憶している)」の登場により、今では信じられないかもしれないが、東芝や松下電器(現パナソニック)などの家電メーカーが次々と参入した。技術的には、任天堂よりも勝った力があったはずの家電メーカーのほとんどが、任天堂の牙城を崩すことができず、あえなく撤退を余儀なくされた。唯一残ったのが、ソニーだった。
残ったソニーと任天堂には、ある共通点があると思う。
それは「遊び」という視点だ。
「遊び」を提供することで、暮らしを豊かにしたい、という企業の思想があるからだ。
ソニーの場合「遊び」と言わず、「エンターテイメント」という表現をしているが、その基となっているのは「遊び」だと思う。
そしてその「遊び」に新しい要素を加えたのが「wii」であり、「ニンテンドーDS」だったと思う。
「wii」の登場によって、子供中心の「ファミコン」が家族で楽しむツールへと変化し、それが時には「スポーツ」へと発展していった。
「ニンテンドーDS」もまた、もともと任天堂が発売をしていたポケットゲーム機をより発展させ、料理レシピのサイトや英語教材などとジョイントすることで、「ゲーム機」から「情報ツール」などへと変化・発展させることに成功した。
一つの企業が2回大きな社会的イノベーションを起こすということ自体、企業人にとっては、夢のようなことだと思う。
そのようなことができたのは、おそらく「京都」独自の文化を背景にしたものがあったのかもしれないし(京都へ年に2,3回遊びに行くたびに感じるのは、京都の人は案外新しもの好きだという点がある)、任天堂という企業文化かもしれない。
亡くなられた岩田社長は、私と同世代だった。
胆管腫瘍という、難治腫瘍に立ち向かわれ先月の株主総会では、議長を務められていた。
おそらく、相当の痛みの中での株主総会だったのでは?と想像すると、その職務を全うするという、仕事への真摯さと仕事への熱意を感じる。まだまだやりたかったことがあったのでは?と思うとその残念さや口惜しさもあったのではないだろうか?
その思いを任天堂と任天堂に関わるすべての方が、引き継いでくださることを願うばかりだ。