土曜日「青春18きっぷ」を使って、京都まで出かけた。
名古屋から在来線を乗り継いで行くことになるのだが、その車窓を眺めるのもまた楽しいひと時だ。
今回久しぶりに在来線の乗継をして、気づいたことがあった。
それは「太陽光発電パネル」が、いろいろなところに設置されていたからだ。
一番驚いたのは、築40年以上経過しているであろう平屋の長屋の屋根に、太陽光発電パネルが1棟ごと設置されていたことだった。
新築のマンションなどに「太陽光発電パネル」が設置してあるのは、見かけたことがあったが築年数が随分経過した平屋長屋というのは、初めて見た気がした。
それにしても、「太陽光発電パネル」を設置している場所というのは、いろいろな場所なのだな~という気がした。
それこそ、かつて家があったような場所や耕作放棄地のようなところは当然。
新たに、土地を切り開いてまで設置したのでは?というところもあった。
そのような光景を電車から眺めながら「何も、太陽光発電だけが、自然エネルギーではないのにな~」と思ったのだ。
確かに、「太陽光発電」はパネルを設置するだけで発電することができるので、初期投資という視点では少ないと思う。
それだけではなく、メンテナンスという点でも比較的簡単、というイメージがある。
だからと言って、土地を切り開くような労力をかける必要があるのか?と、疑問に感じたのだ。
「自然エネルギー」というのは、その土地にあった「発電システム」であれば、良いのではないだろうか?
例えば、「畜産」が盛んな地域であれば、牛や豚、鶏などの排泄物を利用して「メタンガス」による発電をする方法もあると思う。場合によっては「排泄物」を発酵させることで発生する「熱」を利用して、「発電以外のエネルギー利用」という事も可能なのではないだろうか?もちろん「発酵させた排泄物」は、肥料として使えるだろうし、場合によっては「肥料」を販売することも可能だろう。
同じ「メタン」を使うにしても、都市部であれば「下水処理過程」で発生する「メタン」を利用する、という方法もあるのではないだろうか?
素人考えなので、技術的に「無理」というお叱りを受けるかもしれないが、それくらいの「自由」な発想で、「地域エネルギー」を考える必要があると思う。
何故そのようなことを思ったのか?というと、以前「太陽光発電パネルがゴミになる」という記事を読んだことがあるからだ。
一般社団法人東京都設備設計事務所協会:太陽光パネルにごみ問題 不正処理で汚染懸念
この記事そのものは一昨年の記事なのだが、この記事の中心はあくまでも「個人住宅」を対象としている様に思う。
それが、自治体が中心となって「太陽光発電事業」として行っている場合は、パネルの数も個人住宅の比ではない。
パネルの数が多ければ、廃棄されるパネルの数も多いという事になる。
日本の自治体は、ある一つの自治体の成功例を見て「右へならえ」的政策を打ち出す傾向がある。
それが戦後の「ミニ東京化」を目指すことになったのでは?と、考えているのだが、それが「自然エネルギー」の分野では「太陽光発電」になってしまったような気がする。
そして「地域の身の丈に合った、地域限定エネルギー政策」が、今後の日本にとってプラスになるのでは?と考えている。
消費する力が多い地域よりも、電力だけではなく生活に必要なインフラの「地産地消」ができる地域のほうが、様々な部分で「生活の安心」を地域の生活者に提供できるからだ。