今日、安倍さんが「新国立競技場については、ゼロベースで検討する」と、発表した。
つい先日まで「この計画は、民主党政権時代に決まったことなので、私には関係ない」という趣旨の話をしていたことを考えれば、180度の方針転換とも言えなくない。
なんとなくだが、「安保法案」の強行採決で支持率が低下しているうえに、それ以上の問題として多くの国民が「新国立競技場の建設費責任問題」をとらえている、と感じたからの判断だったのでは?という気がしている。
さて、その「新国立競技場」について、元陸上選手の為末大さんがご自身のブログで「新しい国立競技場」についての思いを書かれている、とスポーツ紙が報じている。
日刊スポーツ:為末大し、新国立建設白紙にブログで持論
為末さんと言えば、街中で陸上競技を企画・実行をしたりと、現役時代から独自のスポーツ振興のアイディアを持っていらっしゃるアスリートだ。
そして、現役を引退されてからは、ご自身のブログなどで「市民スポーツの提唱(?)」を積極的にされてきている。
だからこそ、この為末さんの持論には頷けるところがたくさんある。
特に、その施設を「神聖な場所」とするのではなく、「スポーツをしない多くの市民にも、利用される場所にすべき」という指摘は、納得できるところがある。
何より「競技場は誰のために造られるのか?」という視点を、述べていらっしゃる。
今回の「新国立競技場」の設計・デザインが検討される中で、この「誰のために造るのか?」という視点はあったのだろうか?
確かに「オリンピック」という、スポーツの祭典という舞台を新たに造るという点では、華やかでその時代を象徴するような設計・デザインという視点になるのは当然かもしれない。
しかし、一番大切なことは「誰のための競技場なのか?」という当たり前の視点だったのではないだろうか?
それが、「未来的デザイン、建築としてのチャレンジ性を感じさせるデザイン」という視点で、まとまってしまったことが、今回の騒動の発端だったような気がする。
そして為末さんが指摘されている「誰のため」という視点こそ、ビジネスにおいても重要な視点だということだ。
「モノ・コトづくり」において、よく問われる一つに「これまでにないもの」ということがある。
「これまでにないもの」というのは、新しい市場を創りその市場で一番になれる、ということを指している場合が多い。
しかし、「これまでにないもの」を創り出しても、「誰も使ってくれない」のであれば、市場を創り出すことなどできない。
本当は「誰かのために、これまでにないもの」を創り出す、ということが大切なのではないだろうか?
それは「人を思う気持ちだったり、人の思いを想像すること」だったりすることだと思う。
その「人」とは、社会的弱者となる人たちであったり、様々な問題を抱えながらも社会の中で暮らす人たちなのではないだろうか?
だからこそ、為末さんは「パラリンピアンの意見を入れて欲しい」と、言っているのだと思う。
「新国立競技場」の問題は、図らずも「必要な視点は何か?」ということを、教えてくれたような気がする。
見た目の豪華さ・派手さよりも、使い勝手とか周囲との調和といった「当たり前の視点」は、見落とされがちだが、その視点の上に「未来的、新しい技術」がなければ「新しいの意味をなさない」ということを。