日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

中づり広告が無くなる

2021-08-20 19:52:08 | ビジネス

先日、「週刊文春」等が、電車の中づり広告を取りやめる、というニュースがあった。
朝日新聞:週刊文春、中づり広告を終了へ「一つの文化だった」

確かに、スマホの普及と共に電車に乗っている人たちは、中づり広告を見ることなく、スマホの画面を凝視するようになった。
それは、朝の通勤電車で見られた「日経新聞」を折りたたんで読んでいる、サラリーマンの姿を見なくなったのと、同じ頃からかもしれない。
今や通勤電車で新聞を読む人も、中づり広告を見上げながら電車に揺られている人も「絶滅危惧種」のような存在、となっているのかもしれない。

そのように考えると「時代の変化」によって、広告の在り方も変わる必要があるのだから、中づり広告が消えていくのも時代の変化、ということになるのだと思う。
思うのだが、どことなく残念な気がしている。
その「残念な気がする」のは、リンク先の見出しにある「一つの文化」という意識が、私の中にあるからだろう。

雑誌の中づり広告だけとは限らないのだが、決められた大きさの中でどのような言葉を使い、人の気持ちをつかむのか?ということは、広告制作では「基本中の基本」だ。
いわゆる「キャッチコピー」と言われるモノだからだ。
ズルズルと長い文章ではなく、記事の趣旨を伝えながら人の気を引く、という言葉を探すことは、その語彙力の多さだけではなく、言葉を選択するという力も必要になる。

もちろん、週刊誌の中づり広告の記事紹介となる文には、読者の興味を引くだけではなく、反発を呼ぶようなものも数多くあった。
権力者を引きづりおろすような記事紹介の時は、センセーショナルな見出しの時もあったし、タレントさんのゴシップ記事は、事実かどうかという点は不明にしても、どこか面白おかしく書き立てていたような印象を持ったこともあった。
「有名税」という言葉で、犠牲になったタレントさんも数多くいたはずだ。
ただそれらすべてを含め「中づり広告」もまた、その時々の時代を表す言葉であったはずだ。

そのような「言葉」と出会うことが無くなると、今まで以上に「言葉に対して、敏感で無くなるのでは?」という、懸念を持っている。
ネット上で氾濫している様々な情報の言葉は、断定的な表現が多いだけではなく、言葉そものもが短い。
「断定的で短い言葉」は、「分かりやすい」ような気がするのだが、受け手となる人の語彙力と言葉に対する想像力によって、その受け止め方は随分変わってしまうことがある。
何より怖いと感じるのは、それらの言葉遣いが「全体主義的」な動きがある現政権にとって、生活者の思考停止を生みやすい環境となっているのでは?という、懸念すら持っている。
特に、現総理も前総理も「言葉」そのものに対して、軽んじている方々なので、ますます「少ない言葉で、紋切型の言葉遣いをする」ことで、問題の本質から逃げ回っている、と感じている方は多いかもしれない、という点が救いなのだが…。

問題となるのは、デジタルネイティブと呼ばれる世代だ。
スマホやPC等「短い・言い切り型や紋切型」の言葉に触れることばかりだと、「言葉」に含まれる様々なニュアンスや行間・文字間にある潜在的言葉をつかみ取ることができなくなるのでは?という気がしている。
「言葉」そのものは文化の中心であり、「言葉」があるからこそ後世に伝わる考えや意思がある。

「中づり広告」にそれほどの力があるのか?というのではなく、自分が選ぶ情報以外の言葉や文章を見なくなるコトで失われていくモノ・コトがあり、気づいた時には手遅れになっているのでは?と、心配している。