拙ブログでも度々紹介をさせていただく、日経新聞のコラムCOMEMO。
その中に、「まちの寿命」という内容のコラムがあった。
書かれているのは、拙ブログで何度も取り上げさせていただいている大阪ガス・エネルギー文化研究所の池永さんだ。
COMEMO:なぜまちの寿命が終わるのか
このコラムの中にあるように、「新しいもの=価値が高い、古いもの=価値が低い」という感覚は、日本人は特に強いと思う。
「新しモノ好き」という国民性、と言えるのかもしれない。
だからと言って、古いものに価値を見出していない訳ではないと思うし、「骨董ファン」と呼ばれる「古いからこそ価値がある」という人達もいる。
思うのだが、社会的注目を浴び、メディアがこぞって取り上げる話題というのは、やはり「新しいもの」という傾向は強いと思う。
それが「悪い」というわけではないのだが、「新しいもの」ばかりが話題の中心となっていくと、あたかも「新しいものにこそ、価値がある」という錯覚が植え付けられてしまう。
池永さんの指摘は、「話題によってつくられた価値の錯覚」ということのような気がしたのだ。
そしてハッとさせられるのが、物事の発想のスパンが短いという点だ。
コラムのタイトルになっている「まちの寿命」という点で考えれば、戦後各地にできた「ベットタウン」などは代表的なものなのかもしれない。
高度成長期に合わせ、サラリーマンが増え通勤圏に住宅を持つことが、一つの夢でもあった時代、各地に「ベットタウン」ができた。
その「ベットタウン」の象徴だったのが「大規模団地」であり、今や老朽化と共に生活者も高齢化し、居住者が減りつつある。
何より問題なのは、建物の老朽化と世帯の高齢化に対する対策がされないままにある、という点だろう。
団地に住んでいた子供たちは、成長し別世帯を他の場所に求め新たな家に住む、ということが当たり前になっている。
それに合わせたかのように、人口減少とは関係なく新築のマンションが次々と建てられる。
本当にそのようなことで良いのだろうか?という問いかけを、池永さんはされているように思うのだ。
確かに高度成長期には「大量生産、大量消費」が、生活者のライフスタイルの一つだった。
今のような低成長期が続く日本では、少なくとも「大量消費」という時代は、30年前に過ぎ去ってしまったはずなのだ。
「消費するだけ」であれば、その価値はとても低いものになってしまう。
これからは「時を経て磨かれる」ものに、生活や文化に価値を置く時代にならなくては、いつまでたっても「スクラップ&ビルト」の繰り返しで、これまでとは違う新しい価値を創造していくことはできないのではないだろうか?
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