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「渋谷」が何故、野放図な野外パーティー会場となったのか?

2023-10-29 21:10:54 | アラカルト

今年も、「ハロウィン」がやってくる。
「コロナ禍」で、様々イベントが自粛されていたとは言え、何故か「渋谷」ではイベントごとに若者たちが集まっていた。
「コロナ禍」以前は、半ば「騒乱」状態だったように、報道されていた。

そもそも「ハロウィン」は、日本のようなパーティーとしてのイベントであったのか?というと、決してそうではない。
これは散々、いろいろなところで言われてきているように、一種の「様々な収穫に対する感謝のお祭り」だったはずだ。
日本でいうところの「新嘗祭」と、同じ位置づけだと考えても良いかもしれない。

それが米国では、家族が集まる(理由)としてのお祝いのパーティーとなり、子ども達がお化け等の仮装をしながら「お菓子をくれないと、いたずらするぞ!」と、収穫の一部を分け与えてもらう代わりにお菓子をもらいに練り歩くようになっていった。
少なくとも、「お菓子を頂戴!」と言って歩く子ども達から随分成長した大人たちが、路上で騒ぐような「お祭り」ではない。
にもかかわらず、1990年代後半から日本で「ハロウィンパーティー」なるモノが、若い世代の間で定着し始め、メディアがその騒ぎを報道するようになると、より拍車がかかったように「ハロウィンは、バカ騒ぎを路上でしても良い」という、意識へと変わっていった。
まるで伝言ゲームで「りんご」であったものが、「焼肉」に変わっていったような感じだろうか?

その中でも、特に若者たちが集まり騒ぐ場所となったのが東京・渋谷だ。
今回、渋谷区では「渋谷はハロウィンイベント会場ではありません」と大看板を、騒ぎの場所となっているスクランブル交差点に掲示するようになったようだ。
朝日新聞:警戒ハロウィン、渋谷は「来ないで」 定番の広場に異例の大看板 

ここで考えたいのは、何故「渋谷なのか?」という点だ。
極端なことを言えば、自然発生的に、人が集まり騒ぐということだけを考えれば、国会議事堂前であっても問題はないはずだ。
にもかかわらず、若者たちは渋谷に集まり、騒ぐ。
いくら警備を厳重にしても、それは変わることが無い。

とすれば、何故若者が渋谷に集まるのか?ということを考える必要がある。
現在のような「渋谷」の街が形成されてから、「若者の街」と言われるようになった。
切っ掛けとなったのは、「ハチ公前」という待ち合わせ場所としてのランドマークがあったことだろう。
そこから徐々に若者の街となっていったのだが、2002年サッカーW杯での日本代表の躍進が、一番の切っ掛けだったような気がしている。
当時、日本サッカー協会の事務所が、渋谷にあったのだ。
だからこそ、サポーターたちは渋谷に集まり祝杯を上げたい、という気分になったのだろう。
サッカー日本代表の躍進とともに、サポーターたちの渋谷での騒ぎに何も知らない一般の人達も加わり、メディアに取り上げたことで、「渋谷ではイベントで騒いで良い場所」という、認識が定着したのでは?と、考えている。

2002年の渋谷での騒ぎについて、故ナンシー関さんは「気持ちが悪い」という趣旨コトを、自身のエッセイで書かれていた記憶がある。
それほど、その時に騒ぎは異常なモノであったのだ。
その「異常さ」が、あっという間に定着し、日本の季節行事でもなかった「ハロウィン」が、無礼講の野外パーティーイベントと化したのが、今の状況だと思う。

「騒ぎたい」という心理の中には、「日ごろから鬱積したモノを発散したい」という願望、あるいは欲求があるとも言われている。
だからと言って、集団化して迷惑をかける行為は、大人でも子どもでも寛容されるべき行為ではない。
そのような行為がまかり通るとすれば、日本(人)の未成熟さの表れと考える必要があるのかもしれない。



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