31日の渋谷をはじめとする、都市部の「ハロウィン騒動」の記事の中で、気になったコトがある。
それは、そのような騒ぎに乗じたい若者の中には、「誰かといっしょに写真を撮り、Instagramに上げたい」とインタビューに答えていたのだ。
そして「ハロウィンを一緒に楽しみたい」という理由で、渋谷や戎橋、名古屋ではオアシス21に来た若者が、少なからずいた、ということだった。
おそらく普段の生活の中では、学校や職場でも一緒にお昼ご飯を食べたり、おしゃべりをする相手がいない訳ではないのに、「誰かといっしょにいたい」という気持ちは、どこから来るのだろうか?
日常の中にある他人との関係性に満足できていないのか?日常とは別の人間関係を持ちたい、ということなのだろうか?
最近時々新聞などで話題になる「表の自分とは別にネット上で繋がる虚構を含めた自分」の中での繋がりを持ちたい、ということなのだろうか?
とすれば、その「繋がり」はとても刹那的で、連続性の無いもののように思う。
むしろそのようなイベントで一緒に写真を撮り、Instagramに上げたところでそれは一緒に撮っただけ、人との繋がりはないということくらい、よく理解しているだろう。
とすれば、Instagramで「いいね」をしてくれるフォロワーとの繋がりのために、ハロウィンで仮装をし、楽しんでいる自分を媒体にし、フォロワーと繋がっていることで、新しい人間関係をつくっていると思い込んでいるのではないだろうか?
Instagramで「キラキラした自分・素敵な自分」アピールのツールとして、ハロウィンの仮装があり、様々な意味で注目されているスポット・渋谷(あるいは戎橋)に集まり、騒いでいるとしたら、それは「(ひとり)ぼっちの辛さ」の裏返しのような気がするのだ。
それは日常生活での人間関係が、表面的でその場しのぎだと感じているからこそ、自分が話題の中心になれるSNS上での匿名性の高い人間関係に安心し、アピールできるのでは?
今の20代の多くは、生まれた時からインターネットがあり、面と向かった人との付き合い方以外のネット上の人との繋がりを持つようになった世代でもある。
むしろ、ネット上には様々な情報があり、自分と同じ思考や趣味の人を見つけることが簡単にできる。
そのような繋がりは、互いに共感性を持ちやすく、同一化しやすいはずだ。
だからこそ、ネット上の繋がりのほうが、自分らしさを持てる関係だと思い込んでしまっているのではないだろうか?
集団心理が働き、暴走する若者たちの姿は、その仲間に入ることで安心を求めているのかもしれないし、ネット上の知り合いに自分の凄さをアピールしているのかもしれない。
(ひとり)ぼっちは辛いが、深入りしない「ライト感覚な繋がり」を、求めているようにも思えるのだ。
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