日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

「みんなといっしょ」という安心感

2019-04-11 20:44:14 | アラカルト

あちらこちらで、「入学式」の話題が出るようになった。
公立の中学、高校の多くは「制服」があり、今頃は真新しい制服を着た新一年生の初々しい姿を見かける。
と言っても、そのような「制服」があるのは、多くの場合高校まで。
大学の入学式となれば、入学式にふさわしくもそれぞれの個性が現れた服装かと思いきや、今はそうでもないらしい。
朝日新聞:黒のスーツが染めた入学式 ICU学部長が感じた違和感

黒のスーツと言えば、就職活動中の学生を思い浮かべるのだが、今は入学式でも黒のスーツを着る学生が多い、ということのようだ。
せっかく「制服」から解放されたのだから、もっと自由に自分に合った服装を考えて、入学式に臨めば良いのに?!と思ってしまう。
もちろん「就職活動」を意識して、黒いスーツを用意したという学生もいるとは思う。
だが、そもそも「就職活動で黒のスーツを着る」というのが、当たり前のようになったこと自体どこか違和感を持っている。
「目立ちたくない」ということなのか?はたまた「みんないっしょ」という安心感なのか?と、考えてしまうのだ。

就職活動そのものは、面接などでいかに自分をアピールするのか?というのが、重要なポイントのはずだ。
それは面接の受け答えはもちろんだが、服装にしても「黒のスーツ」と指定されていないのであれば、グレーや紺といった違う色の服装でも構わないはずだ。
にもかかわらず「黒のスーツ」というのは、「みんないっしょ」という、安心感のほうが強いのでは?という、気がしている。
それはもしかしたら「働き方」にも通じているのでは?

日本の労働者の生産性は低いと言われている。
その背景にあるのは、恒常的な長時間労働である、という指摘があるのは、ご存じの方も多いと思う。
平成という時代は、「景気回復」と言われながら、多くの生活者は「景気実感が無い」という、「名目と実態」が大きくかけ離れた時代でもあった。
理由の一つに挙げられるのは、「実質賃金が上がっていない」という点があると指摘されている。
そのため「残業代で生活費を稼ぐ」という傾向が生まれやすい社会状況に、なってきている部分も大きいように感じている。
そこに日本人特有(というべきか?)の、「仕事をしている同僚(上司・部下)がいるのに、1人だけ先に帰るのは気が引ける」という、無意識のうちに「就労時間の同調」ということをしているのでは?という気もしている。
それがファッションとして表れているのが、この入学式や入社式の風景なのかもしれない。

表向きはこのような「同調社会=みんなといっしょが安心」という社会でありながら、このような入学式や入社式でのお揃いファッションが目立つようになってきた頃から、「自分探し」とか「セルフブランディング」という言葉を、聞くようになってきたように感じている。
あくまでも個人的な考えなのだが、「自分探し」とか「セルフブランディング」などに時間を割くことは、無駄だと思っている。
なぜなら、人それぞれの個性があり特別な存在だからだ。
「みんなちがって、みんないい」とは、金子みすゞさんの詩「わたしと小鳥と鈴と」の最後の言葉だが、他者と違うことで初めて生まれる関係性があるはずだ。とすればファッションは一番分かりやすい他者との違いを表す自己表現だと思うのだ。


樋口一葉と津田梅子

2019-04-10 12:29:11 | ライフスタイル

新元号に合わせて、というわけではないようだが、今日紙幣の絵柄が一新される、というニュースがあった。
1万円札の福沢諭吉から渋沢栄一、5千円札は樋口一葉から津田梅子、千円札は野口英世から師である北里柴三郎へと代わる。
同じ明治という時代を生きながら、対照的な人生を送ったのは5千円札の樋口一葉と津田梅子だろう。

樋口一葉と言えば「たけくらべ」、「にごりえ」などの作品で知られるが、決して裕福な家庭の出身ではなく、当時の女性に対する「女には学は必要ない」という考えから、上級学校への進学もできず、経済的に困窮する家庭の事情もあり駄菓子などを売る雑貨店を開き、日々の生活の糧としていた。
この時の駄菓子屋に来る子供たちから着想を得て書かれた小説が「たけくらべ」である、ということは有名な話なので、ご存じの方も多いと思う。
その後24歳という若さで、肺結核により亡くなる。
作家としての才能が花開き活躍した期間はわずか1年半も満たない。

それに対して、現在の津田塾大学を創立した津田梅子は、わずか6歳で国費留学生として米国に渡っている。
もちろん津田梅子が、それなりの地位のある家庭の出身だったからだ。
11年にも及ぶ留学生活を経て帰国、その後女子教育が国の発展の為には必要と考え、留学生仲間であった大山捨松などの協力を得て現在の津田塾を創立している。

樋口一葉は、上級学校へ進学するだけの学力や聡明さを持ちながら、当時の「女には教育は不要」という風潮の中で進学を諦め、津田梅子がわずか6歳で米国留学を果たすというのは、やはり「家」の違いがあったからだろう。
それが、その後の人生にも大きく影響しているように思えるのだ。

文学という世界では、男女という性での評価は関係なく、樋口一葉の文学的才能を高く評価していたのは、当時の軍医の森林太郎こと森鴎外だった。
樋口一葉の葬儀では参列叶わず、葬列から遠く離れたところから静かに送った、という話もある。
一方、津田梅子を津田塾を創設することになったのは、その当時の女性の高等教育そのものが「家長に従う良妻賢母」の育成を目的としたものであったコトに驚き、女性が社会で活躍するためには女子専門の高等教育機関が必要だと考えたからだ。

樋口一葉は24歳という若さで亡くなっているので、津田梅子と簡単に比較すべきではないとは思うのだが、二人の人生というのは「明治」という時代に生きた女性として、樋口一葉の人生は当時の世間の考えに従った生き方であり、津田梅子は新しい時代を切りひらくような生き方であったように思うのだ。
ただ樋口一葉の文学的才を認め、活躍ができた「文学界」には、男女という性差による評価が無かったことが、一葉にとって救いだったようにも思う。




社会人だから、勉強しよう

2019-04-08 19:18:46 | アラカルト

先週の入社式から1週間。
新人研修も終わり、今日から配属先への勤務が始まった新入社員もいるのではないだろうか?
そのタイミングに合わせたかのような記事が、Yahoo!のトピックスにあった。
元々の記事はAERAに掲載されている記事だ。
AERA:新入社員は短期間で劣化する 日本人の「仕事への熱意」は世界最低レベル

ここ数年、この時期になると「新入社員が、定着しない」という話題が出てくる。
私が社会に出た頃は、職場で嫌なことがあっても「石の上にも三年」と諭され、3年くらい勤めないとキャリアとして認められない、と言われた。
今ではこのような「3年勤めてキャリアと認められる」ということを言うことは無いと思うのだが、その当時はそれが「社会人の常識」だった。
「年功序列・終身雇用」が、大前提にあったからだ。
逆に言えば、3年過ぎてしまえば新しく学ぶことよりも、失敗や間違いをしないように仕事をすれば、定年まで安泰だったのだ。
その意味ではこのAERAの記事の内容は、遠からず当たっていると思う。

それだけが「仕事への熱意」が低くなる理由ではないと思う。
むしろ大企業に多くみられる「懲罰主義的組織」が、問題なのではないだろうか?
「懲罰主義的組織」を象徴するのが、「仕事で失敗をしたから出世コースから外す」という考えだ。
挑戦的な仕事で失敗をしたのなら、失敗を経験として捉え、次のチャンスを与えることのほうが、組織としては革新的なモノ・コトを生み出す原動力となるはずなのだ。
それに対して「懲罰主義的組織」では、挑戦的な仕事をする前にそのアイディアは潰されてしまうし、たとえ挑戦したとしても「どうせできないのだから」という、批判的な意見の中での仕事となってしまう。
これでは、働く人は萎縮してしまうし、成功例ばかりを参考にした前例主義的な組織になり、硬直した組織になってしまう。

新しいことに挑戦する必要が無いのだから、勉強などする必要もなければ、ハウツーだけでできる仕事ばかりを求めるようになってしまうのは当然だろう。
そのような仕事に「熱意」など感じられるはずもないだろう。

ただこの記事を読んだとき、随分前の日経新聞の広告のコピーを思い出したのだ。

宣伝会議:日経新聞のコピーから読む「勉強」のこと。

「諸君。学校を出たら勉強しよう」とは、何事か!と思われるかもしれないが、このコピーが掲載された1982年ごろは、上述したように社会人になれば、「定年まで安泰」という時代だった。と同時に、その当時の大学は「社会人になるまでの猶予時間」のような捉えられ方も、されていたし、当時の人文系の学生でも日経新聞を毎日読むような学生はほとんどいなかったように思う。
学生時代に学んだことをいったんリセットして、就職した企業が社会人として再教育をする、という感覚もあった。
だからこそこの日経新聞のコピーが効果的だったのだ。

今や、大手企業に就職したからと言って定年まで安泰、という保証はない。
だからこそ、新入社員だけではなく仕事をする人には「日々勉強(別に日経新聞を読むことだけが、勉強ではない、ということは付け加えたい)」が必要だと思うのだ。


「水素エネルギー」と地方

2019-04-07 09:22:09 | ビジネス

日経のCOMEMOに、面白いコラムがあった。
過疎に悩む道府県に「水素特権」をあたえ、「水素エネルギー」による地域の活性化を目指せ!というアイディアのコラムだ。
日経COMEMO:過疎道府県に水素特権を

このコラムを書いた方は「破れかぶれの提案」と書いていらっしゃるのだが、実は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故により、被害を被った福島県相馬市では、この「水素エネルギーと太陽光発電を組み合わせた新しいエネルギー構想」が動き始めている。
環境ビジネスオンライン:福島県相馬市でスマートコミュニティ事業開始 最新の環境技術が集結
IHIプレスリリース:2018.4.5福島県相馬市において、持続性のある地産地消型スマートコミュニティー事業を開始
IHIのこの見出しはまだ続いていて、「『水素を活用したCO2フリーの循環型地域社会創り』を実践」という、長い見出しになっている。
IHIがプレスリリースを出していることに違和感を感じた方もいらっしゃると思うのだが、IHIは相馬市で火力発電所を稼働させている関係から、この「地産地消型スマートコミュニティー」の中心的役割を持つことになったようだ。

このスマートコミュニティの中心になるのは、太陽光発電のようだが、昨年九州電力が太陽光発電事業者に対して「出力抑制」を行った、とニュースになり、「太陽光発電による売電事業の難しさ」のようなことも分かってきた。
10年ほど前にあった「太陽光発電」の魅力が半減している、と感じている電売事業者もそろそろ出始めてもおかしくはないだろう。
とすると、既存の電力会社が「太陽光発電の出力抑制」による損失を、何かで補填したい、という気持ちになるのは当然のことなのかもしれない。
その「出力抑制」による太陽光発電の電力を利用し、「水素エネルギー」に転換させ、蓄電ではなく「蓄水素化」するというのが、実験的に行われている相馬市の「スマートコミュニティー事業」ということになる。

今後、既存の電力会社による「太陽光発電(を含む自然エネルギー)の出力抑制」が頻繁にされるようになると、上述した通り太陽光発電(を含む自然エネルギー)事業者にとって、うまみのある発電事業ではなくなる可能性は高く、CO2削減という目的がありながら、太陽光発電などの自然エネルギーそのものの推進は、ままならない状況になってしまう。
何より、電力そのものは送電する距離が長くなればなるほど、ロスが多くなると言われていることを考えると、発電する場所と消費する場所が近い=地産地消型の電力送電システムが、一番ロスが少なく効率が良い、ということになる。
それに対して(爆発などのリスクを減らすことが重要だが)水素は備蓄することができる。
いざという時、備蓄した水素を使いエネルギーとして活用することができるし、輸送することも可能だろう。

そう考えると、COMEMOにある「水素特権を過疎道府県に与える」というのは、あながち空論ではないような気がする。

 


nanacoカードのポイント付与率半減の影響は?

2019-04-05 22:19:53 | ビジネス

昨日、セブン&アイホールディングスが、自社の電子マネー「nanaco」のポイント付与率を現在の1%から、0.5%にする、と発表をした。

日経新聞:セブン&アイ、「ナナコ」ポイント半減0.5%に

このニュースを受け、Yahoo!などでは随分辛辣なコメントがいくつも書き込まれていた。

コメントのいくつかを見ると「ポイント付与率が良かったから使っていたのに、0.5%では使う気がしない」という内容のものが、圧倒的に多かった。
個人的には、「世間ではそれほど、ポイント還元率を気にしている生活者が多いのか?」と、やや驚いたのだが、名目上の景気の良さを実感できない生活者にとっては、ポイント付与率というのも「節約法」の一つということも感じたのだった。

今年の初めだったか?カルチュア・コンビニエンス・クラブが発行している「Tカード」が利用者の承諾なしで、捜査当局に個人情報や購入履歴を提供していた、と問題になった。
この問題の前後から、「Tカード」の加入事業者が相次いで撤退、というニュースもあった。

TECHWAVE:Tカード、個人情報や購入履歴等を捜査当局に無断提供か

個人情報保護について、デリケートになっている生活者が多い中、このような無神経な捜査当局への情報提供というのは、企業として考えられないものだと思う。
運営会社に対してメリットを感じられず、クレジット機能を持っている自社カードを発行していた三越百貨店などは、早々に取り扱いを止めてしまった、という気がしていたのだが、比較的長い間「Tポイント」を利用していたドトールなどの撤退を決めている。

セブン&アイホールディングスが「nanacoカード」のポイント付与率を半減したのには、理由がある。
新しい電子マネー「7Pay」に切り替えることで、利用者の利便性が上がり、セブン&アイホールディングス側としては顧客情報や購入履歴など「マーケティング」に役立つ情報を手に入れやすくなる、という考えがあったからだろう。
この「7Pay」やファミリーマートが導入予定をしている「ファミペイ」などは、確かにスマホによるQRコードによる決済方法なので、現金を持ち歩く必要はなく、便利な決済システムと言えるし、今政府が旗振りをしている「脱現金決済」という点でも時流に乗ったサービスだといえるのだが、Yahoo!コメントなどを見る限り、多くの生活者は「QRコード決済は便利だが、ポイント付与率は今まで通り」という感覚のほうが強いように感じている。

セブン&アイホールディングス側は、現在の「nanaco」利用者の全てではないが、8割程度はカードの切り替えをするだろう、と想定していたのではないだろうか?
ところが、生活者側はそう思っていない。
何より、「24時間営業」に対するセブン・イレブン側の態度に、多くの生活者は「ノー!!」と言っている。
このような時期に、生活者にとって利便性の高いサービスへの切り替えの為のポイント付与率半減、などと言っても生活者、特にnanacoカードは持っているが、ほとんど利用していないカード保有者にとって、「やはり、企業の都合しか考えていない」という印象を持ってしまっている。

当たり前のことだが、今の生活者がどれくらいのポイントカードを財布の中に持ち、どれほど利用しているのか?など、セブン&アイホールディングス側が把握していたとは思えず、その上での発表というのは「生活者を見ていない企業」と、自ら言ってしまっているような気がする。



社会が大きく変わる(かも知れない)時だからこそ

2019-04-02 22:52:00 | アラカルト

1日に発表された、新元号に関するニュースが、続いている。
「新元号」というだけで、どこかで「新しい時代になる」社会的雰囲気があるように感じている。
それは新年をむかえた、元旦のような気分をもっと深く大きくしたような感覚なのかもしれない。
とはいうものの、4月30日と5月1日との間には「時間的連続」があるだけで、時間的は変化があるわけではない。
「(大きく)変わる」とすれば「(大きく)変える」という意思のある人達が、動かしていくことになるのだろう。

ただ「変わる=変化」というものは、ある日突然起きるものではない。
ゆっくりと多くの人が感じないような速さで変りながら、ある時何らかの切っ掛けで爆発的に「変化」することが多いのもまた、事実だろう。
そしてその変化を起こすのは、若い人たちだけとは限らない。
先日、日経のCOMEMOに「ヒトの知能は60歳まで伸び続ける」というコラムがあった。
COMEMO:ヒトの知能は60歳まで伸び続ける。いかに学び続けるかが将来を決める。

コラムで紹介されていた統計グラフを見ると、言語理解に関しては67歳くらいまでは伸び続ける、ということがわかる。
とすれば、50歳を超えたミドルエイジの人たちは「経験・言語」という部分では、若い世代よりも有利な面を持っている、ということになる。
問題となるのは、「過去の経験にしがみついて、新しいことを受け入れない」という、柔軟性のある思考と発想力の低下だろう。
逆に若い世代は、「未経験」という強みを持っている。
経験が無いからこそ、大胆でユニークな発想や思考を持つことができる。
何より、平成という30年はそれまでとは全く違う「新しいツール」を多くの人たちが手にした時代でもあった。
「新しいツール」とは、PCの普及やインターネット、スマートフォンの登場による、様々な新しいサービスの提供だ。
このような分野については、年齢が高くなればなるほど苦手意識が強くなり、若い世代からは「そんなことも分からないの?」と、言われることにもなる。
このような若い世代の「知ってて当然」という、自分たちの考えを押し付けることもまた、ある種の「硬直した考え方」なのではないだろうか?

先日発表された「幸福度ランキング」で日本は先進諸国の中でも低い58位だった。
「健康寿命」などは、上位であったにもかかわらず「他者への寛容さ」などが、低かったからだ。
この「他者への寛容さ」こそ、社会を大きく変える力なのではないだろうか?
そのために必要なことは世代を超えた「心の若さ(=柔軟なものの見方)」と「(他者から)学び続ける」ということのような気がしている。

新しい時代の幕開けとなる今だからこそ、一番大事な「変化への原動力」となると思うのだ。







日本人の感性と新元号

2019-04-01 17:11:55 | 徒然

今日、新元号が発表された。
ご存じの通り「令和」だ。
元号の由来が「万葉集」の梅を歌った和歌の序文からとられている、という説明もあった。
由来となった序文について、詳しい解説があった。

万葉集入門:梅花の歌三十二首并せて序(万葉集)

高校の古文を思い出すような内容だ。

この解説を読んで「令月」を「好き月」と書かれているのを読んで、「あ~~日本的な感性だな~」と感じた。
「好き月」と書いて「よきつき(=素晴らしい月)」という、意味になる。
けっして「すきな月」ではない。
今現在一般的に使われている「令=命令やおきて、あるいは令息・令嬢といった他者の親族に対する尊敬を表す漢字」ではない、ということもまた重要なのだと思う。
このように、日本人は漢字に様々な意味を含ませ、歌を詠んできたように思う。

随分前、批評家で文筆家の若松英輔さんの本を読んだとき、
「悲しみは慈しみでもありまた『愛しみ(いとおしみ)』でもある。悲しみを持たぬ慈愛があろうか。それ故慈悲ともいう。(中略)古語では『愛おし』を『かなし』と読み、更に『美し』という文字さえも『かなし」と読んだ。」
という柳宗悦の本の一節が紹介されていた。

高校生の頃、古文の授業で頭を悩ましたのは、このような現代で使われている言葉の意味とは全く別の意味で、言葉を使っていたということだった。
「いとかなし」は「とても悲しい」ではなく、「とても心惹かれる、とても見事」という意味で、そのような意味の違いを覚えるだけでも苦労した覚えがある。
ただ、今更ながら感じることは、柳宗悦が書いているように、古典に登場するような歌の作者たちの豊かな感性だ。
短い言葉の中に、いくつもの意味や思いを含ませ、その場の情景を歌う感性というのは、世界的に見ても珍しい文化なのでは?と、思ってしまうのだ。

「良きこと(あるいは善きこと、または好きこと)をもって和となす」のか「和をもって良きこととなす」のか、その解釈はいろいろだと思う。
どちらが先か?ということではなく、その両方を一緒にしていく、ということが大事なのかもしれない。

この「梅花の歌会」が今の2月の出来事というのも、2月生まれの皇太子さまとの繋がりを感じさせる元号だと思う。