日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

専門家の言葉が伝わらない

2023-03-14 22:54:24 | アラカルト

昨日から、新型コロナの感染予防対策として半ば義務付けられていたような「マスク着用」が、「個人の意思による着用」という、どことなくボンヤリとした基準に代わった。
そのこと自体、良かったのではないか?と思うのだが、先日エントリした通り「専門家」と言われる方々の意見は、「これまでの感染予防対策の継続」を訴えるような内容のことが、報道されていた。

この報道内容に対して、Yahoo!コメなどでは相当反発の意見が出ていた。
しかし、公衆衛生などの専門家の方々にとっては「なぜ、批判的なコメントが多いのかわからない」という内容だったらしい。
その理由は「感染対策の基本的なこと」だから。
Yahoo!コメで批判する方と新型コロナで注目されるようになった感染症や公衆衛生の専門家との間には、大きくて深い「理解の溝」のようなものがあるのでは?という気がしたのだ。

感染症や公衆衛生の専門家と言われる方々の多くは、「批判される理由」そのものが分かっていないのでは?という気がしたのだ。
「自分は感染症予防の基本を言っているのに過ぎないのに、なぜ批判されるのか?」とか「感染症を拡大させない為の助言が、なぜ理解されないのだろう?」という疑問を持っている、ということになるだろう。

一方Yahoo!コメなどで批判する方の多くは「なぜ現実の生活を見ないのか?」、「これ以上コロナ禍による生活の不便さ、不都合さを強要するのか?」とか「現実的ではないコトを言う、机上の空論ばかり」という気持ちがあるのでは?という気がしている。
例えば、「三密を避けるように」と言われても、満員の通勤電車で出勤をする人達にとっては「そもそも三密を避けるなんて無理!」と思っているだろう。
介護職の方などは、利用者さんの生活介助の為に「三密」に近い状態にならなければ、仕事にもならない。
現実には、専門家と言われるような方々が提言するような生活をすることが、とても難しいということなのだ。
そして「マスク着用も状況に応じて」という文言が、「やっとマスク生活から解放されるのに、専門家がこのようなことを言えば、マスクを外しにくいことになる」という指摘もあったのでは?と、思っている。

実はこのような「言葉の行き違い」のようなことは、日常的に起きていることでもある。
その「行き違い」が一番起きやすいのが、医療現場のような「専門用語」が頻繁に登場する現場なのでは?と、考えている。
いくら医療者側が「わかりやすい説明」をしようとしても、「わかりやすい説明とは何か?」という理解がされていなければ、意味をなさない。
「わかりやすい説明」とは、話す相手の生活背景などを理解し、平易な言葉を使う必要がある。
ところが残念なことに、日本の社会は「パターナリズム」と呼ばれる「父権主義的」な思考が、根強く残っている。

違う言葉で言うなら「マウントを取りやすい社会」であり、「マウントを取る側」は「難しい言葉で、言いくるめる事で優位性を保ちたい」という、潜在的な考えがあるのでは?ということなのだ。
と同時に、「マウントを取られる側」もまた「権威」を必要以上にありがたがっている、という傾向があるために起きる関係性のようなものがると、感じている。

ところが、ネット社会がその「パターナリズム」を、良くも悪くも壊しかけているのだ。
それが今回の「新型コロナ感染予防対策の継続」という専門家とYahoo!コメとの間で起きた、ということに過ぎない。
「専門家が生活者に寄り添え!」という意思表示がYahoo!コメでされた、ということに過ぎない。
通り一遍の言葉ではなく、「withコロナの生活」とは?という、創造力をもっと働かせていれば、使われる言葉も違ったのでは?
これは、今回の「専門家」に限ったことではない、ということは言うまではなく、専門家と言えども専門外のことは素人同然。
常に専門分野であっても「素人である自分」という意識が、これからのコミュニケーションには必要である、ということだろう。


「応援する」という、ファンづくりと企業

2023-03-10 22:41:36 | マーケティング

今朝、新聞の新刊欄を見ていたら、広告関係雑誌の新号案内があった。
広告会議:ファンに共感される企業の振る舞い「推し活」とマーケティング 

見出しとして使われている「推し活」とは、ここ2,3年の間で頻繁に聞かれるようになった言葉の一つだ。
特定のモノ・コトのファンであり、そのモノ・コトに対して積極的な消費活動を行うだけではなく、周囲に対して推奨をする、という一連の活動のことを指している。
企業にとっては、「自主的な宣伝広告隊」のような存在でもある。

もちろん、このような「積極的な推し活」をする人ばかりでない。
一人、コッソリとモノ・コトを購入し足り参加したりしている、という人達も少なからずいる。
かつての「オタク文化」の中に、このような「推し活」の素因となるモノがあった、というとわかりやすいのかもしれない。
「オタク文化」というと、かつては「根暗」という言葉が枕詞のようについていたが、今の「推し活」は実に堂々としたもので、その分野も「漫画や地下アイドル」と限定されているわけではない。

これらのことを読んでみて、ある種の既視感のようなものを感じた方も数多くいらっしゃるのでは、無いだろうか?
私もこの見出しを読んだとき思い出したのは、10年以上前に発刊された新書「『応援したくなる企業』の時代」を思い出したからだ。
おそらく、拙ブログでも「社会コミュニティーと企業の関係」というテーマで、同様のことを書いてきたと思う。
言葉は変われど、本質となるところは変わっていない、ということでもあるのだ。
大切なことは「多くの人から応援をしてもらえる=推してもらえる」ということであり、それはモノづくり企業に限ったことではなく、社会活動をしているあらゆる団体・個人に関係してくることである、という点だ。

それだけではなく、マーケティングの経験が長い方であれば、「インテマシーロック(オン)」という言葉を思いだされる方もいるのでは?と、思っている。
日用品の中でも消耗品と呼ばれる洗剤やせっけんなど、いろいろなブランドの商品を購入するのに、いつの間にか「定番品」と呼ばれる商品を購入している、という経験はないだろうか?
「結局この商品が自分に一番ぴったりくる」というような商品のことだ。
このような「定番品」を選ぶ過程の中には、単純に「好き」というだけではなく、その商品にまつわる様々な経験や思い出のようなものが含まれており、むしろ「好き」の前にそのような経験や思い出に左右されている、と言われることを指している。

何故それが「応援したくなる=推し活」に結びつくのか?と言えば、経験や思い出といった「目に見えない関係性」がある事で、自然とその商品を購入という形で応援=推している、ということになるからだ。
新しく知った「推し」であっても、「推し」に至る過程で何があったのか?ということを、知る必要がある、ということなのだと思う。
単純に「流行りだから」とか「話題だから」という、理由ではない「何か」がそこにはあるはずなのだ。
その一例が「クラウドファンディング」だろう。
まだ見ぬ商品、手に取ったこともない商品に対して、金額云々ではなく「応援したい」という気持ちで資金を提供するからだ。

そして「応援したくなる=推し」の範囲は、商品などの具体的なモノからカタチの無いモノへと広がりを見せている。
それが「推し」ということになるのかもしれない。


「コロナ禍」で社会は何を学んだのか?

2023-03-09 19:37:03 | アラカルト

来週13日からやっと「新型コロナ感染予防対策」としての、「マスク着用」が個人判断となる。
そして、GW明けにはこれまでの2類相当から5類扱いとなる。
世界的に感染拡大した「新型コロナ」だが、ここにきてやっと日本も諸外国と同じような「withコロナ生活」になっていく(予定)。

この3年間、日本の「新型コロナ対策」とは、どんなものだったのだろう?と、考えてしまう。
その始まりは「新しい生活様式」という名の、政府のお願いから始まったような気がしている。
そこには「3密を避ける、手洗い・うがいの励行、マスクの着用」等があり、他にも商業施設や病院などに出入りする度に入口で体温を測り、アルコール消毒をさせられた。
健康診断の採血では、「アルコール消毒、大丈夫ですか?」と確認をされるのに、どこかへ出かけるとなると半ば強制のように手指のアルコール消毒をさせられた。
その度に、「この感染予防対策って、どれほどの効果があるのだろう?」と、疑問に感じていた。
確かに効果はあったのかもしれない。
効果はあったかも知れないのだが、具体的かつ客観的データとして、その効果を知る事がどれほどできたのか?という、ことに対して疑問を感じている、ということなのだ。

元々日本は「衛生環境の整った国」だ。
ファーストフード店に行くと、接客をする人は手指のアルコール消毒を欠かさないし、食品を扱うのだからマスクなどの着用もしている。
もっと生活の基本的なことを言えば、日本の下水完備は80%程度進んでいる。
都市部と地方では、差があるとしても人が多い都市部の多くは、ほぼ100%に近い整備率なのでは?
そのような「国としての衛生環境」が整っている日本で、何故諸外国よりも随分遅れたうえに、昨夜は専門家と言われる方々が「5類へ移行しても、これまでと同じように」という趣旨のことを話していた。

「これまでと同じような感染予防対策を引き続きって…。」と違和感を覚えた方の数多くいらっしゃったようで、Yahoo!のコメントなどでは相当批判的な内容が書き込まれていた。
「一体2類相当から5類へ移行する意味があるのか?そしてこの3年間それらの生活の制約がどれほど効果があったのか?」という疑問を問う内容がほとんどだった。

確かに3年前、「新型コロナウイルス」の感染拡大が始まった頃は、社会全体が戦々恐々とする日々だった。
それは「未知との遭遇」のような感覚だったのだと思う。
それから次々とウイルスそのものが変異することで、より社会全体に不安を与える事になったのは、ある意味当然なのかもしれない。
その不安を煽っていたのは、何だったのだろう?
3月12日と3月13日の間で、劇的に「新型コロナウイルス」の感染が減少するわけではない。
まして、GW明けの5月6日とGW最後の5月5日の間に、劇的な変化が起きるとも思えない。
にもかかわらず、日にちを区切る事で「withコロナ政策に代ります」と言われるのも、モヤモヤとしたものがある。

というのもこれまで政府が示してきた客観的データは「感染者数と死亡者数」だったからだ。
今でも、「陽性と確認された人/PCR検査を受けた人」、「死亡者/重症者数」と言った数字での発表はされてはいない。
政府の判断材料が見えてこないのだ。
だからYahoo!等のコメントでも、「これからも感染拡大防止のために、マスクは着用すべきだ」という意見と「流行性インフルエンザと同じ扱いになるのだから、健康な人はマスクを外すのは当然だ」という、意見が出てくるのだ。
どちらも心情的なことは十分理解できるが、それはあくまでも他者に対して強制すべきことではないし、強制されるべきことでもない。
そのことをこの3年間、まったくと言ってよいほど学んできていないように感じるのだ。

他にも5類へ移行することで、PCR検査などが有料化され国民負担が大きくなるような書かれ方もされているが、昨年父が病気で倒れ、入院をしたとき主治医との面談の為にPCR検査を受ける事になった。
その時のPCR検査代は、保険適用の3割負担だったのだ。
決して、PCR検査が無料で行われていたわけではない。
そのようなことにフォーカスするよりも、「より健康的で健やかな生活をしていきましょう」と、何故言えないのだろう?
生活者の多くは、そのような「安心感が得られるメッセージ」を、必要としているのではないだろうか?





国際女性デーに思う

2023-03-08 19:00:04 | 徒然

Googleのトップ画面が、女性たちの姿になっている。
今日は、「国際女性デー」だからだ。
元々は、女性の参政権などを求めて始まった、と記憶している。
今でも女性の参政権が認められていない国は、世界には多い。
その背景にあるのは、宗教的な理由によるところが大きいのでは?と、考えている。
それ以外にも、民族的な習慣などによるところもあるだろう。
インドの「カースト制」があるような、階級社会では低階層の人たちは男女関係なく参政権そのものもないのかもしれない。

そのような国は別にして、いわゆる先進諸国と言われる国々の中で、「日本の女性の社会的地位」は下位に居続けている。
その理由のいくつかは、女性が「社会に出てから感じる様々なギャップ」だ。
学生時代までは、男性と肩を並べ勉学に励み、それなりの学業成績であったにしても、就職したとたん「女の子」呼ばわるされる。
世間では「女の子」と呼ばれるような年齢で無くなっても、何故か職場では「女の子」だったりするのだ。
当然「女の子」に与えられる仕事は、男性社員のサブ的な仕事、ということになる。
今では、総合職でバリバリと男性と肩を並べ仕事をする女性も増えて入るとは思うのだが、働く女性全体から考えれば、まだまだ少ないのでは?と、感じる事がある。
そして、東京とその他の地域では、驚くほどの差がある。
国土交通省:地方における女性の活躍(参考資料・PDF) 

この参考資料の3頁を見ていただくとよくわかるのだが、女性の給与そのものが東京とその他都市とでは差がありすぎるのだ。
もちろん、時給などでも最高額である東京と最低額の県との間には200円を超える差があり、1日8時間勤務であれば1,600円の差となり、月22日は働くとすれば、35,200円という差が生まれる。
そこに、ボーナスなどが反映される、ということになる。

もう一つの懸念材料として、あるのが女性の給与と男性の給与との差だ。
この「男女の給与差」の問題は、決して日本だけの問題ではないようだが、日本の場合最初から「男性の7割」が女性の給与と考えられてきた。
「家事労働や子育て」等は「労働」として認められず、当然子育て期間はキャリアの中断期と、みなされるからだろう。
最もこの「7割」という数字の試算は、水俣病裁判などの「生活保障試算」で国が決めたものであり、それが今でも続いている、というのが現状なのでは?と、想像している。

このような状況を考えた時、保守的な地域であれば「何も女性が躍起になって働かなくても。安定的な大企業に勤める相手を見つけて、専業主婦になるのが一番」という、考えが代々引き継がれるのも当然なのかもしれない。
名古屋などは、都市部の中でもこのような意識が女性にも男性にも強く残っている地域なのでは?と、実感することが多々ある。
他にも日本をはじめとする封建社会での「(女性に対する)甘えと優越性」も、関係しているような気もしている。

確かに日本の女性の地位そのものの向上は、遅々として進まないのが現状だろう。
その背景を考えた時、首都圏と地方の賃金的格差が歴然とあるだけではなく、地方に根強く残る「女性と男性の社会的役割」による、女性の活躍の場の制限などによるものだということが分かる。
それは女性自身も意識を変える必要があるだろうし、社会全体も意識を変えていく必要がある、ということに他ならない問題のような気がする。


今の日本を紹介する、発想は?

2023-03-06 20:14:30 | アラカルト

朝日新聞のWebサイトを見ていたら、「悪くはないと思うけど、なんだかな~」という印象の記事があった。
朝日新聞:「ミュージック・フローム・ジャパン」、NYで48回目となる音楽祭

この記事を読むと、若手音楽家が作曲した楽曲を、米国の音楽家たちが演奏する音楽祭のようだ。
このイベントが悪いとは言わない。
むしろ日本の若手クラシック系の音楽家たちの楽曲が、披露される場として貴重なイベントだと思うからだ。

ただ、このようなイベントで何故日本の演奏家たちが演奏をしないのだろう?と、単純に思ってしまったのだ。
と同時に、今の日本の音楽シーンをけん引しているのは、J-Popと呼ばれる音楽なのでは?という点だ。
「J-Popは、あくまでも商業音楽だから、このようなイベントにはそぐわない」と思われる方もいらっしゃるだろうし、何となくだがこのようなイベントを開催する側が、そのように考えているのでは?という気がしている。

それでも開催期間中、1日でも日本のJ‐Popを紹介する日があっても良いのでは?という、気がしたのだ。
今のJ‐Popというか、音楽市場を見てみるとかつてのようなある特定のタイプの音楽ばかりが、ヒットするという時代ではなくなっているような印象を持っているからだ。
いわゆるジャニーズ系と呼ばれるアイドルの楽曲ですら、その楽曲制作に携わっている人たちは固定的な作詞家・作曲家ではなく、様々な音楽関係者が集まっているような印象を持っている。
ましてやここ数年ヒット曲を飛ばしている人たちやバンドの楽曲を見てみると、本当にバラエティーに富んでいる。

それだけではなく、全世界で人気となっているアニソン(=アニメソング)なども、ヒット曲を連発するようなバンドやソングライターチームの楽曲になっている。
経産省肝いりで、事業的には失敗をしているとも言われている「Cool Japan」ではあるが、もともと世界に発信できるコンテンツとして注目されたアニメや漫画などは、今でも世界的人気は高い。
であれば、何故このような場で積極的にアピールをしないのだろう?

というのも、今や中学校などの音楽の授業でもJ-Popの楽曲が取り上げられ、学校教育の中で教えられるようになってきている。
日本の現代音楽の中に、既にJ-Popが入っているのでは?ということなのだ。
2、3年ほど前から1980年代の日本のシティーポップが、世界的にヒットし、今でも注目されている。
決して今回紹介されたような音楽だけが、「日本の現代の音楽」ではないはずなのだ。
確かに、日本ではクラシック音楽などの音楽家の方々の中には、J‐Popのような音楽は商業音楽だから、という考え方の方もいらっしゃるだろう。
しかし、現実にはそのような音楽が、日本の音楽シーンをけん引しているコトには変わりなく、それどころかアニメソングなどは世界中から支持されているのだ。
とすれば、日本の音楽の多様性という視点で、このような音楽イベントで積極的に紹介しても良いのでは?
そして演奏者はやはり、日本人であってほしいと思うのだ。
それもまた一つの「日本の音楽文化」の紹介になると、考えるからだ。


政治家の「発信力」

2023-03-03 15:01:06 | 徒然

拙ブログに来てくださる方なら、何となく感じていらっしゃると思うのだが、岸田政権になってから「政治」をテーマとしたエントリが少なくなっている。
本来であれば、マーケティングなどの経済活動と政治の話は、結び付けないというのが暗黙の了解のようなところがある。
しかし、現実には「金融政策」等は内閣の意向にある程度沿った形で、日銀が金利などの決定をしている、というところがある。
何より、納税者として様々な企業は政府と関わりを持っている。
その意味では、経済活動と政治は切っても切れない関係にある、と考えても良いと思う。

昨年、故安倍前首相が凶弾に倒れ、岸田さんが首相になったわけだが、岸田さんの「政治家としての発信力」が故安倍前首相に比べ、随分弱いというか少ないような気がしている。
例えば今日になって、安倍政権時代に「放送法」の解釈変更を図った、という趣旨の記事が一部新聞に掲載されている。
東京新聞」15年に放送法解釈変更図る 安倍政権、一部番組問題視 

掲載紙が東京新聞ということを考えると、「あ~~なるほどね」と思われる方もいらっしゃるかもしれない。
故安倍首相と東京新聞や朝日新聞などは、決して好意的な関係にあったとは思えない新聞社だからだ。
ただ好意的ではないとはいえ、亡くなってから半年以上経っても故安倍前首相の話題は、いろいろなナタチで報道されている。
そう考えると、故安倍前首相は「良きにつけ悪しきにつけ」様々な情報発信をしてきた、ということにもなるのでは?
任期が長かったとは言え、様々な政策をたて、やってきたのでは?という気がする。

それに比べ、岸田首相は「閣議決定」という言葉で、国会論議を避け実施したものがあるが、その情報発信力についてはどうなのだろう?
岸田首相の場合「閣議決定」という方法で、突然何かを決めてしまうために、生活者の多くが「寝耳に水」のような感覚に陥る政策が多い気がする。
その前振りも無ければ、「何々をする考えがある」という発信もない。
岸田さんが首相になった時「聞く力」という言葉が、いろいろなところで言われた気がするのだが、発信力がないので「一体何を聞いていたの?」というところから、疑問がわいてきてしまう。
結果として「お仲間の話は聞くけど、国民の声は聴かない」という印象になっている(ような気がする)。

政治家は何でも情報発信をすれば良い、とは言わないが国民生活にかかわる事に関しては、情報発信をすべきなのでは?
今でも人気の高い田中角栄氏は、粗野な感じはあったかもしれないが、少なくとも「声なき声を聞け」と檄を飛ばし、その声に対して情報を発信してきたように思う。
それが、亡くなられてからも高い人気となっているのでは?
新聞やテレビ、雑誌など限られたメディアの中で、発信力を見せてきた田中角栄氏に比べ、遥かに手軽に自分の言葉で情報を発信できる時代になっているにも関わらず、発信力が低下しているのは何故だろう?
語質を取られるのが嫌だから?それとも下手に情報を発信すると、利害関係者に迷惑がかかるから?そんな疑いを逆に持たれてしまっているのが、今の岸田首相なのではないだろうか?

政治家としての「発信力」が、これからますます重要になっていく時代に、気づかないのは何故なのだろう?



「世界基準となる」という、グローバル市場の考え方

2023-03-02 21:05:21 | ビジネス

今朝FMを聞いていたら、「世界基準を獲る」ことがグローバル市場の有意さという話があった。
話の中心となっているのが、現在NTTとKDDIが共同で開発をしている「IOWN(アイオン)」と呼ばれる、6Gの技術開発だ。
讀賣新聞: 「6G」光通信開発へ、NTTとKDDIが協力…「IOWN」を基に 

NTTとKDDIという、ライバル通信企業が協力しあって…ということに、違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、今やこのような通信技術開発においては、1社だけでは難しいということなのだろう。
その背景にあるのは、「5G」の技術が中国企業・Huaweiが「世界の中心となっている」という、危機感があるからなのでは?ということだった。

スマホなどで今現在主流になりつつある「5G」だが、スマホ利用者がどれだけその恩恵を受けているのか?というと、あまり実感がない。
私がスマホでスポーツ中継を見たり、ネットゲームをしない、というのが大きな理由だと思う。
「コロナ禍」で一般的になった感のある「ライブ配信」等もほとんど見なかった、というのも原因かもしれない。
このような「スポーツ観戦やネットゲーム、ライブ配信」等を利用していて、利用者のストレスの一つが「時間差」というモノがあったと思う。
「音と映像の時間差が起きている」ということだ。
それが「5G」になると、随分解消されたのでは?と思うのだが、「6G」になればその「時間差」はより解消される、という。

問題なのは、その「6G」の電波を届ける「基地局」だという。
上述した、Huaweiは今現在主流になりつつある「5G」の基地局の「世界基準」となり、世界中で使われている「5G」の基地局建設に、Huaweiが何等かのカタチで関係をしている、ということらしい。
それは、中国のネットサービスをけん制している米国であっても同じだという。
言い換えれば、中国企業のHuaweiが「5G」の基地局の世界基準を獲ったことで、巨大な利益を生み、経済的利益だけではないモノ利益も受け取っている可能性も否めないのでは?という気がしたのだ。

その為NTTとKDDIが、「6G」の基地局建設の要となる技術をいち早く獲得し、「世界基準」となることは、企業だけではなく日本にとっても大きなメリットがある、ということになる。
世界中の「6G」を使うために、NTTとKDDIが開発した技術を使うことになるからだ。
ただ心配なのは、日本の政府がこのようなことに対して、どれだけの理解をしているのか?という点だ。

情報化社会というのは、目に見えない所で様々な情報のやり取りと保管がされ、その情報によって利益が発生するのだ。
利益が発生するということは、当然それだけのリスクもある、ということになる。
それが「国規模の問題になりつつある」ということなのだ。
デジタル庁が発足したが、そのデジタル庁はどれほどこのような「情報化社会の世界基準を獲る」ということに意識を向けているのだろう?
Huaweiが「5G」によってもたらしたであろう、経済的利益以外の利益を考えると、いかに「世界基準」となる技術を獲得し、世界で使われるようになるのか?ということの重要性を感じるのだ。

 

 


東京オリンピックの談合事件と広告代理店。

2023-03-01 11:54:48 | ビジネス

昨日、東京オリンピックで談合があったとして、公取委が刑事告発をする、という報道があった。
毎日新聞:五輪談合、公取委が刑事告発へ 電通、博報堂など6社と幹部ら7人 

この報道を見て、「談合なんかするから」と思われる方が大多数だろう。
もしかしたら「談合は、均等に仕事を分けるための話し合い」と、嘯いている方もいらっしゃるかもしれない。
というのも、「談合」という公共事業における契約について、均等に恨みっこなしで仕事を割り当てる事、という認識が今でも土木・建築業などの中にはあるのでは?という気がしているからだ。
その延長線で、広告代理店が一枚かんでいたのでは?という、認識の方もいらっしゃるのでは?と、想像しているからだ。

談合そのものは、法律では禁じられていることなので、行うこと自体が問題である、ということには変わりない。
それよりも今回注目すべきは、電通や博報堂といった大手広告代理店が加わっていた、ということだと思う。
ご存じの方も多いと思うのだが、今やスポーツイベントに広告代理店が関係することは、当たり前となっている。
おそらくコトの始まりは、1984年のロサンゼルスオリンピックから始まった「オリンピックの商業主義」からの関係なのだと考えている。
それ以前のオリンピックは、開催都市に負担がかかるばかりでなかなか開催地として手を挙げる都市がなく、開催地選びに苦労をしていたという。
そこで、オフィシャルサプライヤーなどを募集し、サプライヤーとなっが企業に対しては、オリンピック会場での広告掲示、オリンピックのロゴを使っての広告などができるようにした。
1984年のロサンゼルスオリンピック以降のオリンピックでは、飲料水メーカーはコカ・コーラ、クレジットカードはVISAカード等と決まり現在に至っているはずだ。
その結果、オリンピック開催が開催都市に大きな利益をもたらす、というスポーツビジネスのモデルが出来上がったことになる。

ここで気づかれたと思うのだが、広告代理店がオリンピックとかかわるようになったのは、このような「オリンピックの商業化」が背景にある。
スポーツイベントとしては世界規模であること、IOCと東京オリンピック組織委員会と、広告代理店契約は別であることなどから、複数の広告代理店がかかわる事になった、ということなのだろう。

IOCやオリンピック組織委員会と懇意な関係になれば、当然そこには様々な「利権」が生じてくる。
その利権を求め、様々な企業が寄ってくる。
その寄ってきた企業の橋渡しと整理を広告代理店が行っていた、というのが今回の構図なのではないだろうか?

もう一つ感じる事は、広告代理店としての事業内容が変わりつつあるのでは?という点だ。
今や「広告」そのものが、新聞やテレビなどのマスメディアだけではなく、YouTubeやSNSなど「情報を発信する媒体」が多様化している。
「媒体の多様化」は、大手広告代理店にとって決してプラスとなるビジネス環境ではないのでは?ということなのだ。
Webコンテンツを作り慣れている人であれば、大手広告代理店ほどの費用を掛けずともある広告そのものを作る、ということはできる。
それまで「広告を出す」ということを考えられなかったような地方企業であっても、YouTubeやSNSでは全国に情報発信ができる。
場合によっては、海外にまでその情報が届く、という時代になってきている。
とすれば、「大手広告代理店」としての社会的意味合いが変わり始めている、ということにもなる。

そのようなビジネス環境の変化を考えると、大手広告代理店だからこそ東京オリンピックのような世界規模のイベントに積極的にかかわり、発生する様々な「利益・利権」を手に収めたかったのでは?
ビジネス環境の変化がもたらした事件のような気もしている。