古くからの街道で舗装はされていても都市化はされていない、人の生活が感じられる道筋というのは味わいがあっていいものです。
滋賀県の高島市から福井県敦賀市へとつながる「七里半越え(七里半街道)」もその一つで、現在は国道が通っているものの、一歩集落の中に入ると街道を行く旅人を見守るような石仏に出会うことがあります。
市橋という集落の道を進むと「逆さ地蔵」という上下反対となったお地蔵さんがありました。
集落の横を流れる笙の川を休憩がてら眺めていて、ふと振り返ると「逆さ地蔵」の案内板があり、整備された遊歩道を登っていきます。
大きめの石に浮彫された「逆さ地蔵」は、頭の部分が斜め下を向いた不思議な姿勢でお祀りされています。
滋賀県栗東市の金勝山にある摩崖仏「逆さ観音(「阿弥陀三尊石仏)」も頭の部分が下を向いた姿でしたが、あちらは一部を石材として使われたためバランスが崩れて逆さになったもの。
こちらの「逆さ地蔵」は、元は近くの橋の袂にあったものを道路工事のために今の場所に移動したものだという。
移動した際に逆さのままでは不憫に思った作業員が正しい姿勢にして安置したところ、病気になってしまったため、逆さの姿に戻したという話があるそうです。
「逆さ地蔵」は後述の「割れ地蔵」と合わせて、四国八十八箇所の写し霊場である「若越新四国八十八箇所」の22番札所となっており、街道のお地蔵さんとして信仰を集めていたようです。
「若越新四国八十八箇所」の霊場は地蔵尊をお祀りする札所が多いといい、古来より若狭・越前と都を行き交う人の旅の安堵を見守り続けてきたお地蔵さんなのでしょう。
「逆さ地蔵」と2つで「若越新四国八十八箇所」の札所になっているのは「割れ地蔵」という石が斜めの割れている地蔵尊です。
2つのお地蔵さんは数百メートルの位置に隣接していますが、逆さだったり割れていたりする特徴的な石仏が近くに祀られているのは不思議な感覚に陥ります。
「七里半越え」の旧街道沿いにはお地蔵さん、先述の2つの地蔵尊を含めて大きな石仏が丁寧にお祀りされていることに驚きます。
小河口集落にはツバキとケヤキの樹を祠としたような石仏が祀られていました。
仏には前掛けが掛けられていて姿は分かりませんが、背後の樹の樹勢の良さもあって見ごたえのあるお地蔵さんです。
旧街道沿いには「笙の川」が流れており、敦賀市の市街地を通って敦賀湾へ流れ込むといいます。
ゴツゴツとした岩が点在し、池河内湿原を源流とする笙の川の水は透き通るような清流です。
疋田集落まで戻ってくると、笙の川へと流れ込む「敦賀運河疋田舟川」があり、かつては日本海に運ばれた物資をこの疎水を使って運搬したといいます。
物資は山を越えて滋賀県に運び込まれ、琵琶湖の水運を利用して京・近江へと荷を運搬したようです。
1815年に幕府や小浜藩によって完成した舟川は、幅が9尺(約2.7m)あり、敦賀湊から疋田まで水路による大量輸送を担っていたとされます。
現在も物流を担った集落の雰囲気は残っており、歴史観を感じる場所です。
「七里半越え」を滋賀県方向に進むと、圧倒されるような巨樹の前に「一里塚」の石碑があります。
「駄口の一里塚」というそうですが、もう県境まであと少しといった場所にある一里塚です。
一里塚のエノキの樹は、幹周が5~6mある見事な巨樹で樹勢もとても良いように見えます。
滋賀・福井のどちらから峠に入ったとしても、旅人はこの一里塚で今いる場所を知り、一時の休憩で体と心を休めたことでしょう。
旧街道は今は国道が通り、観光スポットもないため、通り過ぎるだけの道のように捉えられがちですが、ここかしこに興味深く、見る者を堪能させる場所があります。
普通に人が生活しつつも、古き良き名残りが見られる場所は面白いものです。
滋賀県の高島市から福井県敦賀市へとつながる「七里半越え(七里半街道)」もその一つで、現在は国道が通っているものの、一歩集落の中に入ると街道を行く旅人を見守るような石仏に出会うことがあります。
市橋という集落の道を進むと「逆さ地蔵」という上下反対となったお地蔵さんがありました。
集落の横を流れる笙の川を休憩がてら眺めていて、ふと振り返ると「逆さ地蔵」の案内板があり、整備された遊歩道を登っていきます。
大きめの石に浮彫された「逆さ地蔵」は、頭の部分が斜め下を向いた不思議な姿勢でお祀りされています。
滋賀県栗東市の金勝山にある摩崖仏「逆さ観音(「阿弥陀三尊石仏)」も頭の部分が下を向いた姿でしたが、あちらは一部を石材として使われたためバランスが崩れて逆さになったもの。
こちらの「逆さ地蔵」は、元は近くの橋の袂にあったものを道路工事のために今の場所に移動したものだという。
移動した際に逆さのままでは不憫に思った作業員が正しい姿勢にして安置したところ、病気になってしまったため、逆さの姿に戻したという話があるそうです。
「逆さ地蔵」は後述の「割れ地蔵」と合わせて、四国八十八箇所の写し霊場である「若越新四国八十八箇所」の22番札所となっており、街道のお地蔵さんとして信仰を集めていたようです。
「若越新四国八十八箇所」の霊場は地蔵尊をお祀りする札所が多いといい、古来より若狭・越前と都を行き交う人の旅の安堵を見守り続けてきたお地蔵さんなのでしょう。
「逆さ地蔵」と2つで「若越新四国八十八箇所」の札所になっているのは「割れ地蔵」という石が斜めの割れている地蔵尊です。
2つのお地蔵さんは数百メートルの位置に隣接していますが、逆さだったり割れていたりする特徴的な石仏が近くに祀られているのは不思議な感覚に陥ります。
「七里半越え」の旧街道沿いにはお地蔵さん、先述の2つの地蔵尊を含めて大きな石仏が丁寧にお祀りされていることに驚きます。
小河口集落にはツバキとケヤキの樹を祠としたような石仏が祀られていました。
仏には前掛けが掛けられていて姿は分かりませんが、背後の樹の樹勢の良さもあって見ごたえのあるお地蔵さんです。
旧街道沿いには「笙の川」が流れており、敦賀市の市街地を通って敦賀湾へ流れ込むといいます。
ゴツゴツとした岩が点在し、池河内湿原を源流とする笙の川の水は透き通るような清流です。
疋田集落まで戻ってくると、笙の川へと流れ込む「敦賀運河疋田舟川」があり、かつては日本海に運ばれた物資をこの疎水を使って運搬したといいます。
物資は山を越えて滋賀県に運び込まれ、琵琶湖の水運を利用して京・近江へと荷を運搬したようです。
1815年に幕府や小浜藩によって完成した舟川は、幅が9尺(約2.7m)あり、敦賀湊から疋田まで水路による大量輸送を担っていたとされます。
現在も物流を担った集落の雰囲気は残っており、歴史観を感じる場所です。
「七里半越え」を滋賀県方向に進むと、圧倒されるような巨樹の前に「一里塚」の石碑があります。
「駄口の一里塚」というそうですが、もう県境まであと少しといった場所にある一里塚です。
一里塚のエノキの樹は、幹周が5~6mある見事な巨樹で樹勢もとても良いように見えます。
滋賀・福井のどちらから峠に入ったとしても、旅人はこの一里塚で今いる場所を知り、一時の休憩で体と心を休めたことでしょう。
旧街道は今は国道が通り、観光スポットもないため、通り過ぎるだけの道のように捉えられがちですが、ここかしこに興味深く、見る者を堪能させる場所があります。
普通に人が生活しつつも、古き良き名残りが見られる場所は面白いものです。
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