滋賀県の湖東地方や湖南地方には独特の形の勧請縄が吊るされ、その縄の中央にトリクグラズと呼ばれる象徴的なシンボルが吊るされることがあります。
勧請縄は「道切り」とも呼ばれ、集落の入口や村境、神社の鳥居や参道に吊るされることが多く、集落の中へ入ろうとする魔や疫病など悪いものの侵入を防ぐためのものとされます。
ある意味では「野神さん」や「道祖神」に近いものがあると思いますし、勧請縄やトリクグラズは集落によってそれぞれ独自の形が継承されており、同じものは見られないようです。
神社に奉納される注連縄は神域を守る結界だとすると、勧請縄やトリクグラズは集落の入口や辻で村人を守る結界といえるのかもしれません。
行事神社の勧請縄(トリクグラズ)
勧請縄やトリクグラズは継承が途絶えたり、簡素化されたりして行ってみないとあるかどうか分からないのですが、まずは野洲市行畑にある「行事神社」へと向かいました。
「行事神社」は御本柱に金山毘古神を祀り、境内社の八幡宮に應紙天皇、春日神社に天児屋根命を主祭神として祀る神社で、本社→春日神社→八幡宮の順で拝礼するのだといいます。
鳥居を抜けて境内に入ると目に飛び込んでくるのは勧請杭に吊るされた勧請縄と個性的なトリクグラズ。
勧請縄は集落ごとに祀り方が違うとはいえ、実に神々しく感じる勧請縄です。
12本吊るされた小縄は、カシの枝束を結んだ縄にカシの葉が下げられているのだという。
勧請縄に吊るされる縄や葉は12本になっていますが、これは12カ月間の無事安寧を祈願したものなのでしょう。
12本吊るされた小縄の形も特徴的ですが、他に類を見ない形のトリクグラズには圧倒されるほかありません。
中心に「上」を書かれた木札を付けたトリクグラズは太陽をイメージしているのでしょうか。
燦燦と陽を照らす太陽の下、魔を祓い豊作に恵まれるようにとの祈りの姿のようにも思えます。
上・横・右斜め・左斜めに4本づつの割竹で円を描くように造られたトリクグラズのなんと神々しい事。
滋賀の民俗行事や神事・信仰は、地域や集落によって祀る対象も祀り方も様々ですが、現存しているものが多く興味は尽きません。
境内には木製の格子の中にかつての御神木を思われる樹の根が祀られていました。
もはやオブジェのような姿になっていますが、自然のものに神の姿を見る日本人の感性が息づいています。
行事神社は神亀元年(724年)、御上神社の神託を受けた三上宿禰海部廣国が勧請したのが最初だとされ、「三上別宮」とも称されるといいます。
社殿は慈覚大師・円仁により造営され、南北朝期に修造されたと伝わり、本殿は一間社流造の建築物です。
神社の鳥居の外には鎌倉期の石仏という「背くらべ地蔵」と「阿弥陀如来立像」の2躰が祀られていました。
2躰の石仏は、中山道を行き交う人の道中を護ったとされ、当時は乳児がよく死んだので「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべさせるようになったとの伝承が伝わるそうです。
どうしても一度この目で見てみたかった行事神社の勧請縄(トリクグラズ)に出会えて感謝することしきり。
せっかく野洲市に来ているので、もう一カ所「新川神社」へと向かいます。
新川神社の勧請縄(トリクグラズ)
新川神社は社殿によると、天武天皇が大友皇子と野洲川を隔てて皇位を争われた際に勝利祈願をされ成就されたことにより、朱鳥元年(686年)に造営されたと伝わります。
近くを流れる野洲川が度々氾濫し社殿・境内等は、その被害を受け荒廃するに至ったものの、その度ごとに再興の篤志が寄せられて現在まで祀られているといいます。
鳥居に掛けられているのは普通の注連縄なのですが、境内の途中にはなんとも個性的な勧請縄(トリクグラズ)が吊るされています。
円形を描く4つのトリクグラズが吊るされ、縄には上から先端が刀のように削られた竹に付けられた御幣が12本。
17本ぶらさがる小縄は地面すれすれの長さになっており、のれんのように通ってもいいのかどうか悩ましく感じる。
トリクグラズは集落ごとに姿が違うとはいえ、先の行事神社のものと比べてもあまりに違い過ぎる。
それが集落の個性だと言ってしまえばそれだけですが、多種多様な形で民俗文化が継承されてきたのには驚きを隠せません。
御幣が付けられた竹はまさに刀の如く。
悪いものを打ち祓う呪具ともいえますが、それは自然信仰に始まり、修験道・神道・仏教・道教・陰陽道などの影響を受けて伝承されてきたとされる言葉にも納得致します。
境内には御神木の古木があり祀られています。
神社の裏門の前には伐採された1mほどのスギがありましたので本来は2本の御神木があったということになるのかもしれません。
ゴツゴツした根が瘤のように盛り上がっているのは、さしずめ象の足といったところか。
裏側には痛みが進み洞が出来ていて、修復されていましたが、幹などをみているとまだまだ健在と言える樹です。
新川神社の御祭神は「須佐之男命」で配祀神には「大物主命」と「奇稲田媛姫」を祀ります。
境内社は本殿の右に多賀神社と大神宮、左に若宮神社と日吉神社。この神社でも参拝の順序が決まっています。
本殿は一間社流造の建築物ですが、行事神社にはなかった外削ぎの千木があり、同じくらいの規模の本殿でも建築様式に違いが見られるのが面白い。
境内社はもう一つ社があって、それは放生池にある厳島神社でした。
この放生池はかなり深い水深の池で中には鯉が泳いでいるものの、底が見えない深さに神秘的な感じすらする池に少し怖さも感じます。
湖東地方でも個性的な勧請縄(トリクグラズ)が見られたのは良かったと思います。
勧請縄の文化は廃止されたり簡略化されている場所も多く、失われつつある民俗行事だといわれますが、確かに巡った中の2カ所にはもう勧請縄は存在していませんでした。
勧請縄は「道切り」とも呼ばれ、集落の入口や村境、神社の鳥居や参道に吊るされることが多く、集落の中へ入ろうとする魔や疫病など悪いものの侵入を防ぐためのものとされます。
ある意味では「野神さん」や「道祖神」に近いものがあると思いますし、勧請縄やトリクグラズは集落によってそれぞれ独自の形が継承されており、同じものは見られないようです。
神社に奉納される注連縄は神域を守る結界だとすると、勧請縄やトリクグラズは集落の入口や辻で村人を守る結界といえるのかもしれません。
行事神社の勧請縄(トリクグラズ)
勧請縄やトリクグラズは継承が途絶えたり、簡素化されたりして行ってみないとあるかどうか分からないのですが、まずは野洲市行畑にある「行事神社」へと向かいました。
「行事神社」は御本柱に金山毘古神を祀り、境内社の八幡宮に應紙天皇、春日神社に天児屋根命を主祭神として祀る神社で、本社→春日神社→八幡宮の順で拝礼するのだといいます。
鳥居を抜けて境内に入ると目に飛び込んでくるのは勧請杭に吊るされた勧請縄と個性的なトリクグラズ。
勧請縄は集落ごとに祀り方が違うとはいえ、実に神々しく感じる勧請縄です。
12本吊るされた小縄は、カシの枝束を結んだ縄にカシの葉が下げられているのだという。
勧請縄に吊るされる縄や葉は12本になっていますが、これは12カ月間の無事安寧を祈願したものなのでしょう。
12本吊るされた小縄の形も特徴的ですが、他に類を見ない形のトリクグラズには圧倒されるほかありません。
中心に「上」を書かれた木札を付けたトリクグラズは太陽をイメージしているのでしょうか。
燦燦と陽を照らす太陽の下、魔を祓い豊作に恵まれるようにとの祈りの姿のようにも思えます。
上・横・右斜め・左斜めに4本づつの割竹で円を描くように造られたトリクグラズのなんと神々しい事。
滋賀の民俗行事や神事・信仰は、地域や集落によって祀る対象も祀り方も様々ですが、現存しているものが多く興味は尽きません。
境内には木製の格子の中にかつての御神木を思われる樹の根が祀られていました。
もはやオブジェのような姿になっていますが、自然のものに神の姿を見る日本人の感性が息づいています。
行事神社は神亀元年(724年)、御上神社の神託を受けた三上宿禰海部廣国が勧請したのが最初だとされ、「三上別宮」とも称されるといいます。
社殿は慈覚大師・円仁により造営され、南北朝期に修造されたと伝わり、本殿は一間社流造の建築物です。
神社の鳥居の外には鎌倉期の石仏という「背くらべ地蔵」と「阿弥陀如来立像」の2躰が祀られていました。
2躰の石仏は、中山道を行き交う人の道中を護ったとされ、当時は乳児がよく死んだので「我が子もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背くらべさせるようになったとの伝承が伝わるそうです。
どうしても一度この目で見てみたかった行事神社の勧請縄(トリクグラズ)に出会えて感謝することしきり。
せっかく野洲市に来ているので、もう一カ所「新川神社」へと向かいます。
新川神社の勧請縄(トリクグラズ)
新川神社は社殿によると、天武天皇が大友皇子と野洲川を隔てて皇位を争われた際に勝利祈願をされ成就されたことにより、朱鳥元年(686年)に造営されたと伝わります。
近くを流れる野洲川が度々氾濫し社殿・境内等は、その被害を受け荒廃するに至ったものの、その度ごとに再興の篤志が寄せられて現在まで祀られているといいます。
鳥居に掛けられているのは普通の注連縄なのですが、境内の途中にはなんとも個性的な勧請縄(トリクグラズ)が吊るされています。
円形を描く4つのトリクグラズが吊るされ、縄には上から先端が刀のように削られた竹に付けられた御幣が12本。
17本ぶらさがる小縄は地面すれすれの長さになっており、のれんのように通ってもいいのかどうか悩ましく感じる。
トリクグラズは集落ごとに姿が違うとはいえ、先の行事神社のものと比べてもあまりに違い過ぎる。
それが集落の個性だと言ってしまえばそれだけですが、多種多様な形で民俗文化が継承されてきたのには驚きを隠せません。
御幣が付けられた竹はまさに刀の如く。
悪いものを打ち祓う呪具ともいえますが、それは自然信仰に始まり、修験道・神道・仏教・道教・陰陽道などの影響を受けて伝承されてきたとされる言葉にも納得致します。
境内には御神木の古木があり祀られています。
神社の裏門の前には伐採された1mほどのスギがありましたので本来は2本の御神木があったということになるのかもしれません。
ゴツゴツした根が瘤のように盛り上がっているのは、さしずめ象の足といったところか。
裏側には痛みが進み洞が出来ていて、修復されていましたが、幹などをみているとまだまだ健在と言える樹です。
新川神社の御祭神は「須佐之男命」で配祀神には「大物主命」と「奇稲田媛姫」を祀ります。
境内社は本殿の右に多賀神社と大神宮、左に若宮神社と日吉神社。この神社でも参拝の順序が決まっています。
本殿は一間社流造の建築物ですが、行事神社にはなかった外削ぎの千木があり、同じくらいの規模の本殿でも建築様式に違いが見られるのが面白い。
境内社はもう一つ社があって、それは放生池にある厳島神社でした。
この放生池はかなり深い水深の池で中には鯉が泳いでいるものの、底が見えない深さに神秘的な感じすらする池に少し怖さも感じます。
湖東地方でも個性的な勧請縄(トリクグラズ)が見られたのは良かったと思います。
勧請縄の文化は廃止されたり簡略化されている場所も多く、失われつつある民俗行事だといわれますが、確かに巡った中の2カ所にはもう勧請縄は存在していませんでした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます