「観音の里ふるさとまつり」は今年で第39回を迎え、2017年の第33回から始めた拝観も今年の開帳で全ての観音さまにお会いすることが出来ました。
2023年も31の観音堂や寺院・神社で仏像が開帳されますので、どのコースで巡るか嬉しい悩みとなります。
これまでただ一カ所だけ拝観出来ていなかった東物部の「光明寺」を含めたコースとして、巡回バスのⅡコースを選んで始発便からスタートしました。
昨年の第38回では木之本と余呉・西浅井方面を巡りましたので、今年のⅡコースは高月の中心部エリアを巡ることになります。
普段は田園地帯に村々が点在する静かな地域ですが、今日だけは周遊バスは走る、巡回バスは走る、レンタサイクルは走る、自家用車は走る、人も歩くとにぎわいを見せます。
遠方から来られている方も多く、巡回バス待ちで立ち話した方は東京から2泊3日で来て今日は一日観音の里巡りをするのだとか。
最初に参拝した東物部の「光明寺」は724年、行基菩薩がこの地に伽藍を建て十一面千手観音を安置したのが始まりとされています。
その後、伝教大師最澄が当寺を比叡山の末寺として七堂伽藍を建立したとされますが、度重なる兵火によって本尊以外は焼失したと伝わります。
湖北の観音堂は、村の神社と観音堂が同じ境内に祀られていることが多く、各家の檀家寺は別にある。
主に浄土真宗が多いようですが、檀家寺としての真宗の信仰、野神さんやオコナイ神事を含めての神社の信仰と並行するように観音信仰が根付き守り続けられています。
そこまで観音信仰に篤いのは、やはり在所( 郷里)で何百年と観音さまを守り続けてきた自負とアイデンティティがあるのでしょう。
戦国時代の光明寺は湖北の戦国大名・浅井壱政に庇護されていたといいます。
歴史にIFはありませんが、もし浅井氏が違った選択をしていたとしたら乱世に影響はあったのか、なかったのか。
光明寺の御本尊の「十一面千手観音」は室町時代の作とされていて、まだその時代には天台宗の力が湖北に及んでいたようです。
信長の比叡山延暦寺攻撃や天台宗の淘汰がなければ、明治の廃仏毀釈がなければ、、、仏像のIFがあります。
光明寺の観音堂を出たところで巡回バスの待ち時間があったので「横山神社」まで歩いて馬頭観音像を拝観することにします。
この日は巡回バスの時間が合わない時は歩いて移動しましたが、集落が密集している場所と広い田圃の向こうに隣の集落があるので歩くと広いなと感じます。
横山神社には高月で唯一の「馬頭観音像」が安置されており、観音さまは平安時代末期の作とされます。
平地の横山集落に馬にまつわる観音さんがおられるのは少し不思議に感じますが、これには理由があるようです。
593年に横山大明神が高時川の上流の木之本町杉野の横山岳の五銚子の滝のほとりの杉野巨木に降臨したと伝わる。
その大木を彫って作ったのが馬頭観音で、957年に杉野から高月町横山に勧請されたといいます。
深い山の中にあった杉野の横山神社ゆえに輸送に欠かせない馬への信仰から馬頭観音だったのかもしれません。
高月は古墳の多い地域で横山神社の参道には「横山神社古墳」という前方後円墳があり、6世紀頃の古墳とされています。
高月一帯に兵主神社古墳・古保利古墳群・湧出山古墳・姫塚古墳などがあり、この地には古墳時代に有力者がひしめいていたと考えられます。
古墳の墳丘は結界が張られて特別な場所となっており、この場所は集落の野神さんでもあると聞きます。
目に入ってくるものだけでもいろいろな信仰や祀りが混じり合うようにして残るのは、観音さんだけに留まらず関心深い。
「馬頭観音像」は像高99.6cmのヒノキの一木造の像で、三面八臂のお顔は忿怒の相を示し、頭上には馬頭をいただいている。
この馬頭観音像はほぼ全面にわたって補修が入っているそうですが、湖北では珍しい馬頭観音像は整った感じのするバランスのいい仏像です。
横山神社では待ち時間なく巡回バスが来ましたので、1区間だけ乗って東高田集落の「赤分寺」へと参拝します。
赤分寺観音堂は伝教大師最澄によって開かれ、室町末期には兵火により荒廃するも、後に堂宇を再建し観音像は氏仏として尊崇を集めたといいます。
本尊の「十一面観音立像」は室町時代の作とされますので伝承に伝わる最澄手彫りの作ではありませんが、滋賀における天台宗の勢いはかなりのものだったようです。
古代からの神への信仰や白山信仰に平安期の天台宗の影響で己高山仏教圏が築かれたとされますが、かつて天台宗寺院だったという御堂の何と多いこと。
天台宗の信仰は、東近江へ行くと天台宗や最澄からさらに遡って聖徳太子信仰となっていきますが、同じ天台宗の影響下でも地域によって違いがあるようです。
赤分寺は宗派に属さず、地元の老人会9人でお守りされているそうで、檀家寺と観音さまの信仰がそれぞれ両立しています。
「十一面観音立像」は像高101.3cmの仏像で、以前は秘仏として守られてきたそうです。
本尊の左には「辨財天」が安置されており、像高46.7cmの江戸期の制作とされています。
この仏像は「宇賀弁財天」といった方が正確で、竹生島の宇賀弁財天信仰と小谷の浅井家とのつながりが信仰へとつながっているという。
他の観音堂にも「宇賀弁財天」は祀られていましたので湖北独特の信仰のひとつといえるかと思います。
本尊の右には像高48.2cm、江戸期の「地蔵菩薩半跏像」が安置されています。
赤分寺のある東高田集落は38世帯約130人が暮らしているそうで、この人数は明治の初期から規模は変わっていないとのことです。
その規模の集落の大きさでありながら、江戸期に仏像が次々と安置されてきたのは、信仰の強さに他ならないということになるのでしょう。
境内に立つ樹に紙垂の付いた竹が置かれていたので、野神さんかと思い聴いてみると御旅所だということでした。
かつてはここに祠があったということで現在は石組の土台だけが残っています。
赤分寺からは歩いて次の観音堂である「磯野寺」へと向かいます。
磯野寺は赤見神社の境内地の中にあり、村の西に余呉川・集落内を赤川が縦断しており、かつては川の氾濫による水害の多い村だったという。
磯野は土豪・磯野氏の本拠地であり、磯野氏は戦国大名・浅井氏の重臣で姉川の合戦でも活躍した武将だったといいます。
西には磯野山があり、磯野山城址の看板がありますので、かつて磯野山に山城があったことを偲ばせます。
磯野寺観音堂には室町~江戸期に制作されたという「十一面観音立像」が祀られていますが、この観音堂では撮影禁止です。
像高63.2cmと大きな仏像ではありませんが、お顔は凛として温和な表情をされています。
拝観が終わりましたので、次の巡回バスを待って唐川集落の「赤後寺」へと参ります。
「観音の里ふるさとまつり」で全ての観音さまを拝観するには、何年もかけて巡る必要があります。
今年で一応全ての観音堂を巡ることができましたので、来年からは何度でも見たい仏像に会いに行くことになります。
...続く。
2023年も31の観音堂や寺院・神社で仏像が開帳されますので、どのコースで巡るか嬉しい悩みとなります。
これまでただ一カ所だけ拝観出来ていなかった東物部の「光明寺」を含めたコースとして、巡回バスのⅡコースを選んで始発便からスタートしました。
昨年の第38回では木之本と余呉・西浅井方面を巡りましたので、今年のⅡコースは高月の中心部エリアを巡ることになります。
普段は田園地帯に村々が点在する静かな地域ですが、今日だけは周遊バスは走る、巡回バスは走る、レンタサイクルは走る、自家用車は走る、人も歩くとにぎわいを見せます。
遠方から来られている方も多く、巡回バス待ちで立ち話した方は東京から2泊3日で来て今日は一日観音の里巡りをするのだとか。
最初に参拝した東物部の「光明寺」は724年、行基菩薩がこの地に伽藍を建て十一面千手観音を安置したのが始まりとされています。
その後、伝教大師最澄が当寺を比叡山の末寺として七堂伽藍を建立したとされますが、度重なる兵火によって本尊以外は焼失したと伝わります。
湖北の観音堂は、村の神社と観音堂が同じ境内に祀られていることが多く、各家の檀家寺は別にある。
主に浄土真宗が多いようですが、檀家寺としての真宗の信仰、野神さんやオコナイ神事を含めての神社の信仰と並行するように観音信仰が根付き守り続けられています。
そこまで観音信仰に篤いのは、やはり在所( 郷里)で何百年と観音さまを守り続けてきた自負とアイデンティティがあるのでしょう。
戦国時代の光明寺は湖北の戦国大名・浅井壱政に庇護されていたといいます。
歴史にIFはありませんが、もし浅井氏が違った選択をしていたとしたら乱世に影響はあったのか、なかったのか。
光明寺の御本尊の「十一面千手観音」は室町時代の作とされていて、まだその時代には天台宗の力が湖北に及んでいたようです。
信長の比叡山延暦寺攻撃や天台宗の淘汰がなければ、明治の廃仏毀釈がなければ、、、仏像のIFがあります。
光明寺の観音堂を出たところで巡回バスの待ち時間があったので「横山神社」まで歩いて馬頭観音像を拝観することにします。
この日は巡回バスの時間が合わない時は歩いて移動しましたが、集落が密集している場所と広い田圃の向こうに隣の集落があるので歩くと広いなと感じます。
横山神社には高月で唯一の「馬頭観音像」が安置されており、観音さまは平安時代末期の作とされます。
平地の横山集落に馬にまつわる観音さんがおられるのは少し不思議に感じますが、これには理由があるようです。
593年に横山大明神が高時川の上流の木之本町杉野の横山岳の五銚子の滝のほとりの杉野巨木に降臨したと伝わる。
その大木を彫って作ったのが馬頭観音で、957年に杉野から高月町横山に勧請されたといいます。
深い山の中にあった杉野の横山神社ゆえに輸送に欠かせない馬への信仰から馬頭観音だったのかもしれません。
高月は古墳の多い地域で横山神社の参道には「横山神社古墳」という前方後円墳があり、6世紀頃の古墳とされています。
高月一帯に兵主神社古墳・古保利古墳群・湧出山古墳・姫塚古墳などがあり、この地には古墳時代に有力者がひしめいていたと考えられます。
古墳の墳丘は結界が張られて特別な場所となっており、この場所は集落の野神さんでもあると聞きます。
目に入ってくるものだけでもいろいろな信仰や祀りが混じり合うようにして残るのは、観音さんだけに留まらず関心深い。
「馬頭観音像」は像高99.6cmのヒノキの一木造の像で、三面八臂のお顔は忿怒の相を示し、頭上には馬頭をいただいている。
この馬頭観音像はほぼ全面にわたって補修が入っているそうですが、湖北では珍しい馬頭観音像は整った感じのするバランスのいい仏像です。
横山神社では待ち時間なく巡回バスが来ましたので、1区間だけ乗って東高田集落の「赤分寺」へと参拝します。
赤分寺観音堂は伝教大師最澄によって開かれ、室町末期には兵火により荒廃するも、後に堂宇を再建し観音像は氏仏として尊崇を集めたといいます。
本尊の「十一面観音立像」は室町時代の作とされますので伝承に伝わる最澄手彫りの作ではありませんが、滋賀における天台宗の勢いはかなりのものだったようです。
古代からの神への信仰や白山信仰に平安期の天台宗の影響で己高山仏教圏が築かれたとされますが、かつて天台宗寺院だったという御堂の何と多いこと。
天台宗の信仰は、東近江へ行くと天台宗や最澄からさらに遡って聖徳太子信仰となっていきますが、同じ天台宗の影響下でも地域によって違いがあるようです。
赤分寺は宗派に属さず、地元の老人会9人でお守りされているそうで、檀家寺と観音さまの信仰がそれぞれ両立しています。
「十一面観音立像」は像高101.3cmの仏像で、以前は秘仏として守られてきたそうです。
本尊の左には「辨財天」が安置されており、像高46.7cmの江戸期の制作とされています。
この仏像は「宇賀弁財天」といった方が正確で、竹生島の宇賀弁財天信仰と小谷の浅井家とのつながりが信仰へとつながっているという。
他の観音堂にも「宇賀弁財天」は祀られていましたので湖北独特の信仰のひとつといえるかと思います。
本尊の右には像高48.2cm、江戸期の「地蔵菩薩半跏像」が安置されています。
赤分寺のある東高田集落は38世帯約130人が暮らしているそうで、この人数は明治の初期から規模は変わっていないとのことです。
その規模の集落の大きさでありながら、江戸期に仏像が次々と安置されてきたのは、信仰の強さに他ならないということになるのでしょう。
境内に立つ樹に紙垂の付いた竹が置かれていたので、野神さんかと思い聴いてみると御旅所だということでした。
かつてはここに祠があったということで現在は石組の土台だけが残っています。
赤分寺からは歩いて次の観音堂である「磯野寺」へと向かいます。
磯野寺は赤見神社の境内地の中にあり、村の西に余呉川・集落内を赤川が縦断しており、かつては川の氾濫による水害の多い村だったという。
磯野は土豪・磯野氏の本拠地であり、磯野氏は戦国大名・浅井氏の重臣で姉川の合戦でも活躍した武将だったといいます。
西には磯野山があり、磯野山城址の看板がありますので、かつて磯野山に山城があったことを偲ばせます。
磯野寺観音堂には室町~江戸期に制作されたという「十一面観音立像」が祀られていますが、この観音堂では撮影禁止です。
像高63.2cmと大きな仏像ではありませんが、お顔は凛として温和な表情をされています。
拝観が終わりましたので、次の巡回バスを待って唐川集落の「赤後寺」へと参ります。
「観音の里ふるさとまつり」で全ての観音さまを拝観するには、何年もかけて巡る必要があります。
今年で一応全ての観音堂を巡ることができましたので、来年からは何度でも見たい仏像に会いに行くことになります。
...続く。
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