まずは旅行貯金である。「杉安郵便局」、1,213円。年末の貯金額は高いのだ。
道路の向こう側には、国鉄妻線の廃線跡が見える。私が鉄道マニアに変貌したのは1990年代前半だから、昭和59年に廃止された同線の現役時代は知らない。杉安駅はどんな駅舎だったのか。配線具合はどうだったのか。広い敷地を前に、想像を巡らすのみである。
廃線跡に入り、西都バスセンター方面に歩く。下はレールが剥がされているが、雑草は綺麗に刈られ、歩きやすい。村所(西米良)の先の温泉をパスしたのは、ここでの散策で時間を取っていたからだ。
大きな製材所が見える。妻線の現役時代は、この材木が貨物列車で運ばれたのだろうか。
廃線跡が道路を交差する。その先は舗装道路となり、サイクリングロードになっていた。方向は正反対だが、私が5月に歩きたかった道がここであった。
いわゆるスタート(ゴール)地点なので、小さな駅名板があった。「穂北地区ウォーキングコース」とある。7.2km先の終点まで、10の駅が記されていた。ただしこれらの駅は、妻線のそれではない。
冬の九州は過ごしやすい。舗装された廃線跡をブラブラ歩くのは気分がいいものだ。がその一方で、現役時代に訪れたかった、の思いもよぎる。駅名板は数百メートルごとあり、散歩コースにちょうどよい。
西都バスセンターが近くなってきた。線名にもなった旧妻駅にお邪魔したいが、なかなか見つからない。スマホで旧妻駅の写真を探すと、妻の駅名板が駐車場の一隅に設置されていた。いま私がいる場は、その名も「妻線跡駐車場」だから、場所的にはすぐ近くなのだが、分からない。
と、西都バスセンターに着いてしまった。そこで改めて調べると、妻駅は何と、道路を挟んだ真向かいにあるようだった。
早速向かうと、味わい深い建物があった。妻駅の駅名板もあるが、位置関係から考えて、これが旧駅舎とは思われない。
隣接の駐車場に出ると、ここにも妻駅の駅名板があった。こちらは復元で、ブログの画像と同じものである。ここだったか…!!
旅に出て、目的のモノに巡り合ったときの嬉しさは格別のものがあるが、小さな写真でしか見なかったものが目の前にドーンと現われると、妙な威圧感、というか、恐怖感を感じることもある。今回もまさにそうだった。
…あっ、と思う。そういえばむかしの時刻表には、「西都バスセンター」の右に、「(妻)」の字が付け足されていた記憶がある。これを失念するとは、我ながら迂闊だった。
これで妻線の廃線跡探訪は終わり。足かけ7か月の長旅だった。
12時40分西都バスセンター発のバスに乗る。同じ道を2度行くのは味が悪いが、1日乗車券を使いこなしているので、むしろ痛快だ。
杉安に入り、橋を渡った左手が杉安峡バス停だ。ここから先が処女地となる。
バスは、名のありそうな川に沿って走る。意外、といっては失礼だが、なかなかに見応えがある景色である。前方には急峻な山がいくつも連なり、一幅の絵になっている。杉安峡には行けなかったが、この景色が杉安峡の一部に思えた。
川は左を流れているが、私はバスの右側に座っており、ややおもしろくない。左側にも空席があるが、移動するのも子供じみた感じだ。そのうち川も右手に来るだろうと構えているが、バスは川を交わらない。
欲求不満を抱えているうち、14時13分、バスは7分遅れで村所に着いた。
くま川鉄道・湯前駅の中継点である村所バス停は、物産館が併設されており、山奥のバス停とは思えぬ立派なものだった。建物の正面上部には「村所駅」と掲げられており、鉄道の廃線跡もしくは道の駅と見紛う。がもちろん、ここ一帯に鉄道が通ったという史実はない。
ただ、杉安から湯前まで鉄道が敷かれる可能性がなかったとはいえず、もし全通したら、宮崎県から熊本県まで、風光明媚な観光路線になっていただろう。
建物の前に、白の小型トラックが横付けされた。見ると、さまざまな本が収納されている。
スタッフのおばちゃんに聞くと、これは移動図書館らしい。移動パン屋とか移動八百屋、というのは聞いたことがあるが、「図書館」は初めてだ。
トラックの中にも本がびっしりあり、人も入って選べられる。これならチビッコ諸君も、気兼ねなく本を借りられる。いい試みだと思った。
腹が減ったが、物産館に弁当の類は売っていなかった。肉まんは売り切れで、仕方なく板チョコレートを買う。税込み103円は良心的な値段といえよう。
次に乗るべきバスは、14時35分発の湯前行きである。宮交バスの宮崎→西都バスセンターは1日4本あったが、この湯前行きは1日3本である。そしてこの14時35分発が、湯前行き最終便であった。もっとも土休日は1日2本で、最終は13時30分である。もう、このバスに乗れるのが奇跡的といってよい。
定刻に、西米良村営バスに乗る。仲良くなったスタッフのおばちゃんに手を振り、出発。
バスは小型バスである。定員は20名前後か。しかし客は私を含めて2人だった。さっきの轍は踏むまいと、私はバスの左側に座る。すると、人のよさそうな運転手さんが、
「いまはいいけど、温泉に寄ったあとはバスの右側に座ったほうがいいよ」
とアドヴァイスをくれた。運転手さん、私をバスマニアと看破したようだ。
バスは「ゆた~と」に寄る。時間に余裕があれば一浴したいが、いま入ったら、村所泊まりになってしまう。
私は右側の席に移動する。
「いまはケータイもつながって不自由がなくなったね。ほれ山のあそこ、アンテナが立ってるでしょ。去年○○が立てた。これで△△、□□全部が繋がるようになった」
運転手さんの言葉に、私はうんうんとうなずく。
バスは県道を逸れ、集落に入った。あっちこっちの小道に入って客を拾うためで、鉄道にはできない小技である。
次のバス停は村の集会所で、ここで客のおばちゃんが降りることになった。
バスは集会所の敷地に入り、何と玄関のすぐ前で止まった。
「いまはバスもお客さんのために、こちらから迎えに行かにゃいかん」
運転手さんがおどけるように言った。
景色は相変わらず素晴らしい。まったく、中国のどこかを旅しているようだ。私は運転手さんに、誇張なく絶賛した。運転手さんも、
「ここは山が険しいからね。(だから素晴らしい)」
と言った。
「お客さんはすぐ鉄道に乗るの?」
「はあ、そのつもりですが」
「じゃあ早く行こう」
「ああっ、助かります」
この会話の意味を記そう。このバスは15時38分に湯前駅前に着く。だが、次のくま川鉄道・湯前発は15時37分だから、時間的には間に合わない。5月に旅行したときは、この「1分の壁」のために、このルートを断念した記憶がある。
だが運転手さんは、くま川鉄道に乗るのなら、それに合わせて、早くバスを到着させましょうと申し出てくれたのだ。
まことにありがたい話で、私はお言葉に甘えた。「到着時刻より早く着ける」。これもバスの利点である。バスは定刻より4分早い15時34分に、湯前駅前に着いた。
ちなみに村所→湯前のバス料金は、800円。ほとんど貸切状態であっちこっちの村落もめぐり、運転手さんの楽しい話も聞けて、激安のバス旅だった。
湯前を素通りするのは気が引けるが、そのまま駅舎に入る。券売機で切符を買い、ホームに出ると、15時37分発の列車が私を待っていた。まったくこの列車に乗れるとは、机上の計画とは、まさに計画でしかないことを痛感する。
列車は3両もあった。第3セクターにしては異例の多さである。
中に入ると、最後尾の1両が洒落たデザインで、本棚などが設置されていた。
しかし驚いたのは、それだけではなかった。
(つづく)
道路の向こう側には、国鉄妻線の廃線跡が見える。私が鉄道マニアに変貌したのは1990年代前半だから、昭和59年に廃止された同線の現役時代は知らない。杉安駅はどんな駅舎だったのか。配線具合はどうだったのか。広い敷地を前に、想像を巡らすのみである。
廃線跡に入り、西都バスセンター方面に歩く。下はレールが剥がされているが、雑草は綺麗に刈られ、歩きやすい。村所(西米良)の先の温泉をパスしたのは、ここでの散策で時間を取っていたからだ。
大きな製材所が見える。妻線の現役時代は、この材木が貨物列車で運ばれたのだろうか。
廃線跡が道路を交差する。その先は舗装道路となり、サイクリングロードになっていた。方向は正反対だが、私が5月に歩きたかった道がここであった。
いわゆるスタート(ゴール)地点なので、小さな駅名板があった。「穂北地区ウォーキングコース」とある。7.2km先の終点まで、10の駅が記されていた。ただしこれらの駅は、妻線のそれではない。
冬の九州は過ごしやすい。舗装された廃線跡をブラブラ歩くのは気分がいいものだ。がその一方で、現役時代に訪れたかった、の思いもよぎる。駅名板は数百メートルごとあり、散歩コースにちょうどよい。
西都バスセンターが近くなってきた。線名にもなった旧妻駅にお邪魔したいが、なかなか見つからない。スマホで旧妻駅の写真を探すと、妻の駅名板が駐車場の一隅に設置されていた。いま私がいる場は、その名も「妻線跡駐車場」だから、場所的にはすぐ近くなのだが、分からない。
と、西都バスセンターに着いてしまった。そこで改めて調べると、妻駅は何と、道路を挟んだ真向かいにあるようだった。
早速向かうと、味わい深い建物があった。妻駅の駅名板もあるが、位置関係から考えて、これが旧駅舎とは思われない。
隣接の駐車場に出ると、ここにも妻駅の駅名板があった。こちらは復元で、ブログの画像と同じものである。ここだったか…!!
旅に出て、目的のモノに巡り合ったときの嬉しさは格別のものがあるが、小さな写真でしか見なかったものが目の前にドーンと現われると、妙な威圧感、というか、恐怖感を感じることもある。今回もまさにそうだった。
…あっ、と思う。そういえばむかしの時刻表には、「西都バスセンター」の右に、「(妻)」の字が付け足されていた記憶がある。これを失念するとは、我ながら迂闊だった。
これで妻線の廃線跡探訪は終わり。足かけ7か月の長旅だった。
12時40分西都バスセンター発のバスに乗る。同じ道を2度行くのは味が悪いが、1日乗車券を使いこなしているので、むしろ痛快だ。
杉安に入り、橋を渡った左手が杉安峡バス停だ。ここから先が処女地となる。
バスは、名のありそうな川に沿って走る。意外、といっては失礼だが、なかなかに見応えがある景色である。前方には急峻な山がいくつも連なり、一幅の絵になっている。杉安峡には行けなかったが、この景色が杉安峡の一部に思えた。
川は左を流れているが、私はバスの右側に座っており、ややおもしろくない。左側にも空席があるが、移動するのも子供じみた感じだ。そのうち川も右手に来るだろうと構えているが、バスは川を交わらない。
欲求不満を抱えているうち、14時13分、バスは7分遅れで村所に着いた。
くま川鉄道・湯前駅の中継点である村所バス停は、物産館が併設されており、山奥のバス停とは思えぬ立派なものだった。建物の正面上部には「村所駅」と掲げられており、鉄道の廃線跡もしくは道の駅と見紛う。がもちろん、ここ一帯に鉄道が通ったという史実はない。
ただ、杉安から湯前まで鉄道が敷かれる可能性がなかったとはいえず、もし全通したら、宮崎県から熊本県まで、風光明媚な観光路線になっていただろう。
建物の前に、白の小型トラックが横付けされた。見ると、さまざまな本が収納されている。
スタッフのおばちゃんに聞くと、これは移動図書館らしい。移動パン屋とか移動八百屋、というのは聞いたことがあるが、「図書館」は初めてだ。
トラックの中にも本がびっしりあり、人も入って選べられる。これならチビッコ諸君も、気兼ねなく本を借りられる。いい試みだと思った。
腹が減ったが、物産館に弁当の類は売っていなかった。肉まんは売り切れで、仕方なく板チョコレートを買う。税込み103円は良心的な値段といえよう。
次に乗るべきバスは、14時35分発の湯前行きである。宮交バスの宮崎→西都バスセンターは1日4本あったが、この湯前行きは1日3本である。そしてこの14時35分発が、湯前行き最終便であった。もっとも土休日は1日2本で、最終は13時30分である。もう、このバスに乗れるのが奇跡的といってよい。
定刻に、西米良村営バスに乗る。仲良くなったスタッフのおばちゃんに手を振り、出発。
バスは小型バスである。定員は20名前後か。しかし客は私を含めて2人だった。さっきの轍は踏むまいと、私はバスの左側に座る。すると、人のよさそうな運転手さんが、
「いまはいいけど、温泉に寄ったあとはバスの右側に座ったほうがいいよ」
とアドヴァイスをくれた。運転手さん、私をバスマニアと看破したようだ。
バスは「ゆた~と」に寄る。時間に余裕があれば一浴したいが、いま入ったら、村所泊まりになってしまう。
私は右側の席に移動する。
「いまはケータイもつながって不自由がなくなったね。ほれ山のあそこ、アンテナが立ってるでしょ。去年○○が立てた。これで△△、□□全部が繋がるようになった」
運転手さんの言葉に、私はうんうんとうなずく。
バスは県道を逸れ、集落に入った。あっちこっちの小道に入って客を拾うためで、鉄道にはできない小技である。
次のバス停は村の集会所で、ここで客のおばちゃんが降りることになった。
バスは集会所の敷地に入り、何と玄関のすぐ前で止まった。
「いまはバスもお客さんのために、こちらから迎えに行かにゃいかん」
運転手さんがおどけるように言った。
景色は相変わらず素晴らしい。まったく、中国のどこかを旅しているようだ。私は運転手さんに、誇張なく絶賛した。運転手さんも、
「ここは山が険しいからね。(だから素晴らしい)」
と言った。
「お客さんはすぐ鉄道に乗るの?」
「はあ、そのつもりですが」
「じゃあ早く行こう」
「ああっ、助かります」
この会話の意味を記そう。このバスは15時38分に湯前駅前に着く。だが、次のくま川鉄道・湯前発は15時37分だから、時間的には間に合わない。5月に旅行したときは、この「1分の壁」のために、このルートを断念した記憶がある。
だが運転手さんは、くま川鉄道に乗るのなら、それに合わせて、早くバスを到着させましょうと申し出てくれたのだ。
まことにありがたい話で、私はお言葉に甘えた。「到着時刻より早く着ける」。これもバスの利点である。バスは定刻より4分早い15時34分に、湯前駅前に着いた。
ちなみに村所→湯前のバス料金は、800円。ほとんど貸切状態であっちこっちの村落もめぐり、運転手さんの楽しい話も聞けて、激安のバス旅だった。
湯前を素通りするのは気が引けるが、そのまま駅舎に入る。券売機で切符を買い、ホームに出ると、15時37分発の列車が私を待っていた。まったくこの列車に乗れるとは、机上の計画とは、まさに計画でしかないことを痛感する。
列車は3両もあった。第3セクターにしては異例の多さである。
中に入ると、最後尾の1両が洒落たデザインで、本棚などが設置されていた。
しかし驚いたのは、それだけではなかった。
(つづく)