(2011年6月13日のつづき)
その年、つまり平成6年の夏に、私は務めていた工場を辞めた。この業界も景気が悪くなり、注文が少なくなっていた。そうすると真っ先に切られるのは、私のような中途半端な存在である。最初の会社がリストラ、そして今回も似たようなものだ。どうして私は会社運が悪いのだろう。
3か月ほど就職活動をして、次に務めた会社は小さな広告代理店だった。パソコン系の広告を扱っており、新卒の会社での業務と似ていたこともあって、即採用だった。
だがこの会社が安月給の上なかなかに激務で、皮肉なことに角館の美女のことを考える余裕はなくなっていた。
それでも心に余裕ができたある日、私は「会社四季報」を買い、以前郁子さんのご母堂がつぶやいた「3文字の会社名」を調べてみた。するとその会社名は実際にあり、かなりの大手だった。
ダメもとで電話を掛けてみる。人事課に繋がったので、私は「千葉郁子」という名前の女性が勤めていたかどうか訊いてみた。
すると相手方が
「その女性は昭和62年に入社して、翌63年7月に退職しております」
と言った。
私は半ば放心状態になった。
…同一人物だ…。郁子さんは本当にこの会社に勤めていた。ご母堂の言葉は本当だったのだ。
郁子さんはこんな大手に勤めたにもかかわらず、わずか1年余りで退職し、地元に帰った。そしてその1か月後、私は角館の武家屋敷で、彼女と巡りあうことになったのだ。
「そ、その女性の当時の住所を教えていただけませんか?」
私は平静を装って訊く。
「は? …そんなこと、お教えできません!」
ガチャリ、と物凄い勢いで切られた。…まあ、そうなるだろう。どこの誰とも分からぬ男に、そこまで突っ込んだ情報は教えられまい。それによく考えたら彼女は会社を辞めたあと、角館に戻り数年間住んでいたのだ。当時の住処はとっくに引き払っているはずで、そもそも訊く意味がなかったのだ。
彼女はM治大学文学部を卒業している。御茶ノ水にある大学の教学部に行って、何か情報を得られまいか。社交性の高い郁子さんだから、当時の友人といまも交流があるのではないか?
たとえば卒業生名簿を入手し、ほかの卒業生の電話番号に片っ端から掛ける。一人ぐらい親切な人が、郁子さんの近況を教えてくれないだろうか?
イヤ無理だ。どう考えてもこれは独善の読みである。そんなにうまくいくわけがない。
「探偵を雇えば?」
私の幼馴染は真顔でそう言った。「実家の住所と電話番号は分かってるんだろ? そりゃ探偵の手管はすごいらしいぜ。何かの業者を装って、シレッとウソをつく。言葉巧みに誘導して、ターゲットの現住所を聞きだしちまう」
確実に彼女の現住所が分かるのなら、一考の余地はある。しかし望みが叶って私がいきなり彼女の前に現れたら、彼女は驚くだろう。私がやっていることは、いまの言葉でいうストーカーなのだ。
いや住所が分かったら、最初に手紙を出せばよい。それで私が了承を得たら、初めて彼女と再会するのだ。
いやこれも独善だ。いきなり手紙が来たら、男がどうして自宅の住所を知り得たか、誰だって不審に思う。会うわけがない。それに切実な問題として、探偵を雇ったら、費用がいくらかかるだろう。軽く数十万はするだろう。私の貯金ではとてもムリだ。
その翌年、私は角館に向かった。例の理容院に入り、髪をカットしてもらう。店の夫婦は私のことを覚えていた。私は最初に訪れた時、ご夫婦には誠意をもって接したつもりだ。それが伝わったのか、今回私への嫌悪は感じられなかった。
郁子さん宅に行ってみる。緊張の一瞬である。その佇まいは変わっていないが、中に人がいるふうではなかった。
私は近所を当たってみる。すると、郁子さんのご尊父が体調を崩し、入院しているとの情報を得た。
サングラスの奥から覗くご尊父の濁った眼が、私の脳裏によみがえる。
が、今回の収穫はそこまでだった。
その半年後、私はまたも角館に向かった。郁子さん宅に向かう途中、市民病院があった。ここにご尊父は入院しているのだろうか。いや病状によっては、大曲市や秋田市に入院しているかもしれない。
だが入院先を知っても、私には意味がないと分かる。のこのこ御見舞いに行ったところで、「誰だお前は!! なんだお前は!! 帰れバカ野郎!!」と叩きだされるのがオチだ。
私はまた理容院に寄って、髪をカットしてもらう。もはや私のジンクスだ。会計の時、料金が少し安くなった気がしたが、勘違いだろうか。
郁子さん宅に人はやはりいなかった。付近で井戸端会議をしている輪があったので、そこに向かう。
かくかくしかじかと事情を話し、郁子さん宅の近況を訊いてみる。その最中、私がかつて話を聞いた、初老の奥さんが混じっていたことに気付いた。私に長男かどうか訊き、私を値踏みするような目で見、瞳の奥に警戒感と軽蔑の眼差しを宿していた人だ。
奥さんも当時の私と認めたはずだが、近所の目もあったから、私をあからさまに罵倒することはしなかった。
ただその奥さんは、
「千葉さんとこは秋田市に移転するみたいよ」
と言った。「そこで事業をするんですって」
商店は休眠状態だったようだし、再開するにしても誰が業務を継続するのかと訝ったが、その情報が本当なら、ついに私と郁子さんとを繋ぐ糸が切れる。
もはやここまでか…。私は観念した。
このころ鉄道業界では大イベントが進行していた。角館の路線である田沢湖線に秋田新幹線が通ることになり、改軌工事のため平成8年3月から1年間、田沢湖線が休止になったのだ。
その間は代行バスが走ったが、私は角館に行く気はしなかった。
平成9年3月22日、秋田新幹線が華々しく開業した。上野から東北新幹線と同じダイヤで走り、盛岡で秋田行き「こまち」が分離する。在来線上を走るが軌道は新幹線である。ただ地形の関係で新幹線ほどのスピードは出せないから「ミニ新幹線」となる。
それはともかく、上野から乗り換えなしで角館に行けるとは、昭和63年当時は思いもしなかった。値段を度外視すれば、中途半端な地方に行くよりよほど早い。便利な世の中になったものだ。
その角館には、その年の6月14日(土)に行った。ただこの時は正直、もう郁子さんには会えないと観念していた。何しろあれから9年近くも経過している。郁子さんも32歳、さすがにもう結婚しているだろう。
この時は「ウイークエンドフリーきっぷ」(15,000円)を使い、やまびこ・こまち27号に乗った。08時07分は、上野発。車内は満席だったが、途中で座ることができた。角館には11時52分着。3時間45分の新幹線旅だった。
駅前に出る。新幹線の停車駅だけあって、駅舎は面目を一新していた。武家屋敷の入母屋風で、東北の小京都にふさわしい。駅前は綺麗に整備され、人力車が人待ちをしていた。右手の秋田内陸縦貫鉄道も、駅舎は瀟洒な建物に替わっていた。
それまで角館は、時刻表ではただの特急停車駅だったが、この時は「周遊指定地」に昇格していた。
私は武家屋敷を一瞥したあと、郁子さん宅に向かう。
市立病院の角を曲がり田沢湖線の線路を越え、理髪店の先の道を右折すれば郁子さん宅である。
が、その田沢湖線の手前の道路が、大変なことになっていた。
(つづく。アップ日は未定)
その年、つまり平成6年の夏に、私は務めていた工場を辞めた。この業界も景気が悪くなり、注文が少なくなっていた。そうすると真っ先に切られるのは、私のような中途半端な存在である。最初の会社がリストラ、そして今回も似たようなものだ。どうして私は会社運が悪いのだろう。
3か月ほど就職活動をして、次に務めた会社は小さな広告代理店だった。パソコン系の広告を扱っており、新卒の会社での業務と似ていたこともあって、即採用だった。
だがこの会社が安月給の上なかなかに激務で、皮肉なことに角館の美女のことを考える余裕はなくなっていた。
それでも心に余裕ができたある日、私は「会社四季報」を買い、以前郁子さんのご母堂がつぶやいた「3文字の会社名」を調べてみた。するとその会社名は実際にあり、かなりの大手だった。
ダメもとで電話を掛けてみる。人事課に繋がったので、私は「千葉郁子」という名前の女性が勤めていたかどうか訊いてみた。
すると相手方が
「その女性は昭和62年に入社して、翌63年7月に退職しております」
と言った。
私は半ば放心状態になった。
…同一人物だ…。郁子さんは本当にこの会社に勤めていた。ご母堂の言葉は本当だったのだ。
郁子さんはこんな大手に勤めたにもかかわらず、わずか1年余りで退職し、地元に帰った。そしてその1か月後、私は角館の武家屋敷で、彼女と巡りあうことになったのだ。
「そ、その女性の当時の住所を教えていただけませんか?」
私は平静を装って訊く。
「は? …そんなこと、お教えできません!」
ガチャリ、と物凄い勢いで切られた。…まあ、そうなるだろう。どこの誰とも分からぬ男に、そこまで突っ込んだ情報は教えられまい。それによく考えたら彼女は会社を辞めたあと、角館に戻り数年間住んでいたのだ。当時の住処はとっくに引き払っているはずで、そもそも訊く意味がなかったのだ。
彼女はM治大学文学部を卒業している。御茶ノ水にある大学の教学部に行って、何か情報を得られまいか。社交性の高い郁子さんだから、当時の友人といまも交流があるのではないか?
たとえば卒業生名簿を入手し、ほかの卒業生の電話番号に片っ端から掛ける。一人ぐらい親切な人が、郁子さんの近況を教えてくれないだろうか?
イヤ無理だ。どう考えてもこれは独善の読みである。そんなにうまくいくわけがない。
「探偵を雇えば?」
私の幼馴染は真顔でそう言った。「実家の住所と電話番号は分かってるんだろ? そりゃ探偵の手管はすごいらしいぜ。何かの業者を装って、シレッとウソをつく。言葉巧みに誘導して、ターゲットの現住所を聞きだしちまう」
確実に彼女の現住所が分かるのなら、一考の余地はある。しかし望みが叶って私がいきなり彼女の前に現れたら、彼女は驚くだろう。私がやっていることは、いまの言葉でいうストーカーなのだ。
いや住所が分かったら、最初に手紙を出せばよい。それで私が了承を得たら、初めて彼女と再会するのだ。
いやこれも独善だ。いきなり手紙が来たら、男がどうして自宅の住所を知り得たか、誰だって不審に思う。会うわけがない。それに切実な問題として、探偵を雇ったら、費用がいくらかかるだろう。軽く数十万はするだろう。私の貯金ではとてもムリだ。
その翌年、私は角館に向かった。例の理容院に入り、髪をカットしてもらう。店の夫婦は私のことを覚えていた。私は最初に訪れた時、ご夫婦には誠意をもって接したつもりだ。それが伝わったのか、今回私への嫌悪は感じられなかった。
郁子さん宅に行ってみる。緊張の一瞬である。その佇まいは変わっていないが、中に人がいるふうではなかった。
私は近所を当たってみる。すると、郁子さんのご尊父が体調を崩し、入院しているとの情報を得た。
サングラスの奥から覗くご尊父の濁った眼が、私の脳裏によみがえる。
が、今回の収穫はそこまでだった。
その半年後、私はまたも角館に向かった。郁子さん宅に向かう途中、市民病院があった。ここにご尊父は入院しているのだろうか。いや病状によっては、大曲市や秋田市に入院しているかもしれない。
だが入院先を知っても、私には意味がないと分かる。のこのこ御見舞いに行ったところで、「誰だお前は!! なんだお前は!! 帰れバカ野郎!!」と叩きだされるのがオチだ。
私はまた理容院に寄って、髪をカットしてもらう。もはや私のジンクスだ。会計の時、料金が少し安くなった気がしたが、勘違いだろうか。
郁子さん宅に人はやはりいなかった。付近で井戸端会議をしている輪があったので、そこに向かう。
かくかくしかじかと事情を話し、郁子さん宅の近況を訊いてみる。その最中、私がかつて話を聞いた、初老の奥さんが混じっていたことに気付いた。私に長男かどうか訊き、私を値踏みするような目で見、瞳の奥に警戒感と軽蔑の眼差しを宿していた人だ。
奥さんも当時の私と認めたはずだが、近所の目もあったから、私をあからさまに罵倒することはしなかった。
ただその奥さんは、
「千葉さんとこは秋田市に移転するみたいよ」
と言った。「そこで事業をするんですって」
商店は休眠状態だったようだし、再開するにしても誰が業務を継続するのかと訝ったが、その情報が本当なら、ついに私と郁子さんとを繋ぐ糸が切れる。
もはやここまでか…。私は観念した。
このころ鉄道業界では大イベントが進行していた。角館の路線である田沢湖線に秋田新幹線が通ることになり、改軌工事のため平成8年3月から1年間、田沢湖線が休止になったのだ。
その間は代行バスが走ったが、私は角館に行く気はしなかった。
平成9年3月22日、秋田新幹線が華々しく開業した。上野から東北新幹線と同じダイヤで走り、盛岡で秋田行き「こまち」が分離する。在来線上を走るが軌道は新幹線である。ただ地形の関係で新幹線ほどのスピードは出せないから「ミニ新幹線」となる。
それはともかく、上野から乗り換えなしで角館に行けるとは、昭和63年当時は思いもしなかった。値段を度外視すれば、中途半端な地方に行くよりよほど早い。便利な世の中になったものだ。
その角館には、その年の6月14日(土)に行った。ただこの時は正直、もう郁子さんには会えないと観念していた。何しろあれから9年近くも経過している。郁子さんも32歳、さすがにもう結婚しているだろう。
この時は「ウイークエンドフリーきっぷ」(15,000円)を使い、やまびこ・こまち27号に乗った。08時07分は、上野発。車内は満席だったが、途中で座ることができた。角館には11時52分着。3時間45分の新幹線旅だった。
駅前に出る。新幹線の停車駅だけあって、駅舎は面目を一新していた。武家屋敷の入母屋風で、東北の小京都にふさわしい。駅前は綺麗に整備され、人力車が人待ちをしていた。右手の秋田内陸縦貫鉄道も、駅舎は瀟洒な建物に替わっていた。
それまで角館は、時刻表ではただの特急停車駅だったが、この時は「周遊指定地」に昇格していた。
私は武家屋敷を一瞥したあと、郁子さん宅に向かう。
市立病院の角を曲がり田沢湖線の線路を越え、理髪店の先の道を右折すれば郁子さん宅である。
が、その田沢湖線の手前の道路が、大変なことになっていた。
(つづく。アップ日は未定)