20日(土)は久しぶりに、原宿に行った。2月24日に将棋ペンクラブ幹事・湯川邸に落語のネタおろし会でお邪魔した際、同席していたイラストレーター・小川敦子さんから、展示会の案内をいただいたからである。
その後、湯川博士幹事からも同様のハガキもいただいた。会期は19日~21日だったが、訪問を20日にしたのは、この日に湯川幹事も顔を出すとしたためられていたからだ。
20日午後に原宿駅に着くと、ホームは改良工事中で、明治神宮側に大仰な鉄骨が組まれていた。近い将来、こちらへの出入りもできるようになるのだろう。
原宿は私が新卒で入った会社の最寄り駅で、2年くらい通っただろうか。3番目の会社の四ッ谷ほど嫌悪感はないが、実は原宿も、苦い思い出ばかりである。
会場は神宮前3丁目の「DESIGN FESTA GALLERY WEST」1階。原宿からは竹下口が近かったが、表参道側に降りてしまった。
しかしすごい人出で、どこかで大きな祭りでもやっているのだろう。あるいは大物芸能人が来ているのか。
表参道はオシャレで、異国情緒があふれていた。私はお上りさん状態で、ここは私の来るところではないと感じる。
案内ハガキには小さい地図が付いており、それに倣うと、「GALLERY WEST」へは迷わず着くことができた。
よく分からないが、ここは展示専用スペースらしく、毎週、芸術家(の卵)らが自作品を展示しているようだった。
1階にはいくつもの小部屋があり、それぞれ作品が展示してある。小川さんの部屋も見つかり、隣接するテラスに、小川さん、湯川幹事らの姿を認めた。
挨拶に行くと、その中庭は飲食スペースになっていて、どこかで飲食物を頼めるらしかった。みなは小さなテーブルを囲い、すでに出来上がっているようである。
私はとりあえず鑑賞に戻ると、小川さん、永田氏も来てくれた。
小川さんは絵画を5つ展示していた。傍らには「将棋ペン倶楽部」のバックナンバーも掲示されていた。もちろん、表紙は小川さんの作品だ。
今回の絵画も女性らしいカラフルな色づかいで、国籍不明の艶やかな雰囲気がある。
部屋にはほかにも何人かの作品が展示されており、油絵、津軽の人々の写真、そして笑顔、笑顔、笑顔の写真があった。案内ハガキには「小川敦子とその仲間たち展」とあったから、みなは同志なのだろう。
小川さんと永田氏がアイヌの民族衣装を来た油絵?が掛かっていた。作者に聞くと、それはペイントソフトで描いたという。いまはこんなタッチもPC上で描けるのか。これでは一部の漫画家が、PCでの制作に走るわけである。
小川さんはイラストレーターとして収入を得ていると思いきやまだ趣味で、作品を販売したことはないという。
よく考えたらそれも真理で、作品は自分の子供みたいなもの。手許に置いておくのが自然である。
「でも置くところがなくなってきて――」と小川さんは困惑していたが、信念や情熱があれば、それらを置けるスペースは作れるものである。むしろそれがないと、スペースはあるのに将棋書籍を処分する、私のような愚行を犯すことになるのだ。
小川さんと湯川幹事の接点は、以前湯川幹事がこのような展示会に来た時、たまたま小川さんの作品を目に留めたことによる。それで一目ぼれした湯川幹事が、小川さんをスカウトしたという。
このあたり湯川幹事は、交流の輪の拡げ方が本当にうまいと思う。私などはむしろ逆で、どうかすると交流の輪を狭めようとする癖がある。
テラスに戻ると、湯川幹事以下、恵子さん、岡松さん、Hiw氏、それとネタおろし会でも拝見した年配の女性がいた。要するに、いつものメンバーである。
私はもう失礼していいのだが、お言葉に甘えて1杯いただく。テーブルの上にはすでにビール瓶が何本か並んでおり、ツマミもきた。
私は改めて、湯川幹事から、小川さんをスカウトした時の話をいろいろ聞く。その間にも辺りをヒトが通るのだが、さすがに原宿表参道、みなモデルのような容姿である。鼻の高い外国人も通って、ここは外国かと錯覚する。
そこに、魅力的な女性が訪れた。それは小川さんの娘さんだった。小川さんは四女をもうけたという。娘さんは女の子を3人連れていたが、それはお孫さんになる。小川家は女系、ということだ。
娘さんはお菓子を各自に渡す気配り。私は恐縮するしかない。
今度は、見知らぬ青年が顔を出した。彼は一般客で鑑賞に来たのだが、そこに将棋同人誌を見つけ、挨拶に来たらしい。彼は将棋を趣味にしているようだ。
そうなれば湯川幹事の出番で、すぐ奥の部屋に消えていった。
なおも私たちの雑談は続いたが、岡松さん、湯川幹事の妹さん(と分かった)が退席し、気が付けば4時をとうに過ぎている。永田氏が、室内の飲食スペースに場所を移しましょう、と言ったので、それを潮に、私も失礼させていただいた。
竹下通りの前の横断歩道に着くと、ひときわ高いビルがそびえていた。原宿も同潤会アパートがなくなるなど、日々進化を遂げているのだ。
青で渡ると竹下通りに行かず、私は右折した。かつての勤務地を再訪しようと思ったのだ。
会社に至る景色はすっかり変わっていたが、間に東郷神社があるので、変わらないところもある。しかしもう記憶は薄れ、薄い靄がかかったようだ。
会社のあった辺りでやや迷うと、突然、という感じで、そこに行きついた。ここは会社を辞めた後に一度訪れたがそれ以来だから、もう25年は経っている。でも3階建てのビルは、まったく変わっていなかった。
ただし、入居する会社は、もう変わっていた。あれから風の噂で、会社は移転、規模縮小後廃業? と聞いたから、これは覚悟していた。
裏に回ると、半地下への階段と、ゴミ置き場があった。毎週見本誌がどっさり届くのだが、営業で捌ききれないから、まだ発売前の新刊雑誌を処分することになる。私はその役回りをよくやっていて、そのたびに心が痛んだものだ。
駅前に戻り、竹下通りの中間くらいにあった寿司屋を確認しようとしたが、竹下通りの人出もものすごく、とても入ってゆけない。
これはご縁がなかった、と行くのを諦めた。
その後、湯川博士幹事からも同様のハガキもいただいた。会期は19日~21日だったが、訪問を20日にしたのは、この日に湯川幹事も顔を出すとしたためられていたからだ。
20日午後に原宿駅に着くと、ホームは改良工事中で、明治神宮側に大仰な鉄骨が組まれていた。近い将来、こちらへの出入りもできるようになるのだろう。
原宿は私が新卒で入った会社の最寄り駅で、2年くらい通っただろうか。3番目の会社の四ッ谷ほど嫌悪感はないが、実は原宿も、苦い思い出ばかりである。
会場は神宮前3丁目の「DESIGN FESTA GALLERY WEST」1階。原宿からは竹下口が近かったが、表参道側に降りてしまった。
しかしすごい人出で、どこかで大きな祭りでもやっているのだろう。あるいは大物芸能人が来ているのか。
表参道はオシャレで、異国情緒があふれていた。私はお上りさん状態で、ここは私の来るところではないと感じる。
案内ハガキには小さい地図が付いており、それに倣うと、「GALLERY WEST」へは迷わず着くことができた。
よく分からないが、ここは展示専用スペースらしく、毎週、芸術家(の卵)らが自作品を展示しているようだった。
1階にはいくつもの小部屋があり、それぞれ作品が展示してある。小川さんの部屋も見つかり、隣接するテラスに、小川さん、湯川幹事らの姿を認めた。
挨拶に行くと、その中庭は飲食スペースになっていて、どこかで飲食物を頼めるらしかった。みなは小さなテーブルを囲い、すでに出来上がっているようである。
私はとりあえず鑑賞に戻ると、小川さん、永田氏も来てくれた。
小川さんは絵画を5つ展示していた。傍らには「将棋ペン倶楽部」のバックナンバーも掲示されていた。もちろん、表紙は小川さんの作品だ。
今回の絵画も女性らしいカラフルな色づかいで、国籍不明の艶やかな雰囲気がある。
部屋にはほかにも何人かの作品が展示されており、油絵、津軽の人々の写真、そして笑顔、笑顔、笑顔の写真があった。案内ハガキには「小川敦子とその仲間たち展」とあったから、みなは同志なのだろう。
小川さんと永田氏がアイヌの民族衣装を来た油絵?が掛かっていた。作者に聞くと、それはペイントソフトで描いたという。いまはこんなタッチもPC上で描けるのか。これでは一部の漫画家が、PCでの制作に走るわけである。
小川さんはイラストレーターとして収入を得ていると思いきやまだ趣味で、作品を販売したことはないという。
よく考えたらそれも真理で、作品は自分の子供みたいなもの。手許に置いておくのが自然である。
「でも置くところがなくなってきて――」と小川さんは困惑していたが、信念や情熱があれば、それらを置けるスペースは作れるものである。むしろそれがないと、スペースはあるのに将棋書籍を処分する、私のような愚行を犯すことになるのだ。
小川さんと湯川幹事の接点は、以前湯川幹事がこのような展示会に来た時、たまたま小川さんの作品を目に留めたことによる。それで一目ぼれした湯川幹事が、小川さんをスカウトしたという。
このあたり湯川幹事は、交流の輪の拡げ方が本当にうまいと思う。私などはむしろ逆で、どうかすると交流の輪を狭めようとする癖がある。
テラスに戻ると、湯川幹事以下、恵子さん、岡松さん、Hiw氏、それとネタおろし会でも拝見した年配の女性がいた。要するに、いつものメンバーである。
私はもう失礼していいのだが、お言葉に甘えて1杯いただく。テーブルの上にはすでにビール瓶が何本か並んでおり、ツマミもきた。
私は改めて、湯川幹事から、小川さんをスカウトした時の話をいろいろ聞く。その間にも辺りをヒトが通るのだが、さすがに原宿表参道、みなモデルのような容姿である。鼻の高い外国人も通って、ここは外国かと錯覚する。
そこに、魅力的な女性が訪れた。それは小川さんの娘さんだった。小川さんは四女をもうけたという。娘さんは女の子を3人連れていたが、それはお孫さんになる。小川家は女系、ということだ。
娘さんはお菓子を各自に渡す気配り。私は恐縮するしかない。
今度は、見知らぬ青年が顔を出した。彼は一般客で鑑賞に来たのだが、そこに将棋同人誌を見つけ、挨拶に来たらしい。彼は将棋を趣味にしているようだ。
そうなれば湯川幹事の出番で、すぐ奥の部屋に消えていった。
なおも私たちの雑談は続いたが、岡松さん、湯川幹事の妹さん(と分かった)が退席し、気が付けば4時をとうに過ぎている。永田氏が、室内の飲食スペースに場所を移しましょう、と言ったので、それを潮に、私も失礼させていただいた。
竹下通りの前の横断歩道に着くと、ひときわ高いビルがそびえていた。原宿も同潤会アパートがなくなるなど、日々進化を遂げているのだ。
青で渡ると竹下通りに行かず、私は右折した。かつての勤務地を再訪しようと思ったのだ。
会社に至る景色はすっかり変わっていたが、間に東郷神社があるので、変わらないところもある。しかしもう記憶は薄れ、薄い靄がかかったようだ。
会社のあった辺りでやや迷うと、突然、という感じで、そこに行きついた。ここは会社を辞めた後に一度訪れたがそれ以来だから、もう25年は経っている。でも3階建てのビルは、まったく変わっていなかった。
ただし、入居する会社は、もう変わっていた。あれから風の噂で、会社は移転、規模縮小後廃業? と聞いたから、これは覚悟していた。
裏に回ると、半地下への階段と、ゴミ置き場があった。毎週見本誌がどっさり届くのだが、営業で捌ききれないから、まだ発売前の新刊雑誌を処分することになる。私はその役回りをよくやっていて、そのたびに心が痛んだものだ。
駅前に戻り、竹下通りの中間くらいにあった寿司屋を確認しようとしたが、竹下通りの人出もものすごく、とても入ってゆけない。
これはご縁がなかった、と行くのを諦めた。