一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

冬の北海道旅行2018・6

2018-02-23 00:07:36 | 旅行記・北海道編
私は飲食エリアに行く。毎年そこで120円のたい焼きを買うのが定番なのだが、昨年はあんとクリームをひとつずつ買ったら、なぜかどちらもクリームだった。
よって今年はあんをひとつだけ所望したら、「今焼いてる最中」の返事。これは今年は、縁がなかったようである。
ステージ脇の大雪像は「ミニオンズ」。ステージ上の椅子取りゲームは、関係者が出場者をスカウトして、何とかゲームにこぎつけた。
私は雪像の鑑賞に入る。今年もレベルは高いが、しんしんと雪が降ったせいで、雪像に雪が積もり、シャープさが失われた。雪像は一度造ったら終わりでなく、つねに点検が必要だ。制作者はつねに雪像に注意をはらってくれたら嬉しい。













椅子取りゲームは都合3回行われ、それなりに盛り上がったようである。
ちょっと早いが、なよろ会場はこれで失礼する。
駅に戻る途中、中華料理屋があった。ここはかつて寿司屋で、何年か前に暖簾をくぐったら、シャリがないとかで断られた。
あの時と同じ経営者とは思われないが、この店は店頭から気合を感じず、中に入らないまま駅に急ぐ。
それにしても今年の名寄は、さっきも誰かが話していたが、暖かい。
駅前にある寒暖計の鉄塔は、「-0.2℃」を示していた。ちなみに4年前、ここでの寒冷が原因でカメラが殉職した時は、-18.1℃だった。指先が痛かったものである。よって-0.2℃が暖かいという感覚、これは内地の人間でも実感できるのである。
駅前に食堂があったが、テーブル席はすべてふさがっているようで、ここもパス。晩飯は旭川で摂ることにした。
見慣れぬ建物があったので入ると、そこは新設のバスターミナルだった。いままで道北バス以外は表のベンチで待つ形だったから、この建物は嬉しい。
名寄駅に入ると、駅員がいなかった。券売機の横に「名寄駅の営業時間は07:40~17:05」の表示があった。昨年の4月1日から、営業時間が4時間短縮されたらしい。
もう何度も書いているがJR北海道は瀕死の状態で、列車の本数を減らしたり、車両を少なくしたりして、涙ぐましい努力を続けている。今回の営業時間削減も、その一環であろう。
ただ営業努力するにしても、北海道の人口は減少を続けているから、手の打ちようがないのも事実である。
私は旭川までの切符を買う(1,640円)。これがJR北海道への最も手近な貢献だ。
19時08分の列車は1両だった。ロングシートしか空いておらず、そこに座る。表は漆黒の闇で何も見えず、列車はのろのろ走る。それにしたって例年はもう少しスピードが出ていたと思うが、鈍行化が経費削減になるのなら、文句は言えない。
19時56分、旭川着。駅前は氷彫刻が並んでいた。「旭川冬まつり」の一環である。鑑賞は明日が本番だが、やっぱり見入ってしまう。しかし像の一部が欠けているものもあって、旭川も暖冬だったのかと思う。
今年は厳冬のイメージがあるが、とくに寒いのは、日本海側と東京近辺だけだったのだろうか。旭川も過ごしやすく、まったく、東京のほうがよほど寒かった。
さて食事である。空腹のイヤな感じ、これを我慢すればダイエットになるのだが、そうもいくまい。もっとも旅行中は歩数を稼いでいるので、堂々と食事はできるのだが。
平和通買物公園に「松屋」があった。牛丼並が地方都市価格の290円である。つい入店し、牛丼の食券を買った。
旭川まで戻ると、店内に何組か外国人がいて、現在券売機で四苦八苦している家族も、外国人だ。
私は牛丼を美味しくかっ食らい、午後10時前、東横イン旭川駅前一条通にチェックインした。

翌11日(日・祝)。今日の行程は単純で、「第59回旭川冬まつり・氷彫刻世界大会」を丸一日楽しむ。
東横インは朝食がサービスである。問題は席の絶対数で、あまり多いとは言えない。
8時半過ぎに1階に降りると、カウンター席がいくつか空いたので、そこで摂った。
ご飯は和食が中心で、バイキング形式。かやくごはんにおかずが数種類と、充実している。
美味しくいただき、チェックアウトした。今夜は同じ東横イン旭川の「東口」に泊まるのがアレだが、荷物は軽いので、一日背負っていても問題はない。それと、何かを背負っているほうが暖かい、ということもある。
平和通買物公園に入り、朝の氷像を鑑賞する。しかし昨晩の雪をかぶっており、やや興趣が殺がれる。
しばらく歩くと、雪掃除のスタッフが、氷像の雪を機械で吹き飛ばしていた。
これも重要な仕事である。これで撮影に耐えうる氷像になったが、氷像は透明もしくは白色なので、昼間の鑑賞はそぐわない。夜のライトアップを見た方がよい。
むしろ感動したのは、買物通にそびえる樹木の雪景色だ。いままでこんなに雪がかぶっているのを見たことがなく、雪の花が咲いているかのようだった。



常盤会場に入る。お茶席を模した和風の空間があり、スタッフが暖かいお茶を配っていた。
ここ数年の常盤会場は大氷像もなく、イベントも尻すぼみ傾向だったが、今年は気合が入っている。
スタッフ氏に聞くと、
「今年はインバウンドということで、多くの外国のお客様を見込んでいます。今年は日本の文化をあらわしてみました」
とのことだった。
河畔会場に入る。今年も正面ステージに大雪像があるが、動物をあしらっている。今年はどこかとのタイアップはないみたいだ。
表面にあまり凹凸はなく、やはり平板の感は免れないが、夜はプロジェクションマッピングが行われるのだろう。
スタッフ氏からプロフラムを貰う。中を確認すると、昨日10日は、あっと驚く芸能人がステージに登場していた。
しまった…。
(26日につづく)
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冬の北海道旅行2018・5

2018-02-22 00:14:10 | 旅行記・北海道編
(17日のつづき)
バスがオレンジのクルマを踏み潰しても、バスは何ともなかった。
???
…オレンジのそれは、制限続度の数字だった。半分寝ぼけていて、見間違えたのだ。
「すみません…」
大変な醜態を晒してしまい、私は周りの乗客に謝る。みなは、おかしな乗客がいる、と訝ったことだろう。
幌加内(交流プラザ)には、定刻より3分早い12時49分に着いた。ここで乗り換えとなるが、乗客は私を含めて5人だった。ただし名寄までのバス車両は変わらず、このまま座ってよい。料金も通しで大丈夫だ。
私は運転手さんに、プラザ内の蕎麦屋に入ることを断った。
「食べる時間はあるね」
了承は得たが、蕎麦屋は準備中だった。何とそばが完売し、「現在追い打ち中」の貼り紙が出ていた。深名線バスの楽しみのひとつがここのそばだったのに、何てこった。
2階にはJR深名線の資料館もあるが、土・日は休み。休みの時ほど開放すべきなのに、関係者は何を考えているのだろう。
私は運転手さんに先ほどの醜態を謝り、13時02分、発車。乗客は私のほかに旅行の男性が1人だけだった。
13時25分、ルオント前着。ここのせいわ温泉もルーティーンのひとつで、私は下車した(1,370円)。残された彼は、名寄市内まで一人であろう。
早速施設に向かうが、アプローチの雪の量がすごい。雪山があっちこっちにできていて、これだけのドカ雪は初体験だ。ただし寒さは思ったほどではない。
施設に入り、まずは館内の蕎麦屋「そばの里」に入る。これもルーティーンだが、考えてみればさっきは菓子パンを食べていたし、幌加内でそばを食べていたら、もうお腹がくちくなっていたかもしれない。
例年通り「おろしそば」を頼む。そばは香り高く、美味かった(750円)。
すぐに温泉に入りたいが、私は引き返し、第三雨竜川橋梁に向かう。もちろんルーティーンだ。
現地に着く。さっき車内からチラッと見えたが、やはり雪が多かった。しかし橋梁の鮮やかなグリーンは健在だ。
私が現役時代のJR深名線に乗ったのは名寄発16時の列車で、あの時は車窓の景色より、地元住民と語り合う車掌さんの印象のほうが強かった。でもあの時、もっとじっくり車窓を味わっておくべきだったと思う。道路側から線路を見ても、虚しいだけだ。


▲2017年

▲2018年

ルオントに戻り、やっと温泉である(500円)。前日はシャワーを浴びなかったので、ちょうどよい。
3連休の初日だからか、客は10人ぐらいいて、多かった。
体を洗うべく洗い場に座るが、鏡に映る私の頭髪が、かなり薄くなっているのに愕然とした。
いままでは後頭部の薄さに気を取られていたのだが、前方も相当ヤバくなっている。完全にスキを衝かれた形で、どうしてこちらも毛生え薬を付けなかったのかと後悔する。惨状が顕著になって初めて、事の重大さに気付く。私はいつもそのパターンだ。
体と頭を洗って湯船につかったが、回数を重ねて入るには、間が持たないことが判明した。
ひげ剃り、体、頭と、入浴の合間に少しずつやればよかった。
表の露天風呂につかったが、この冷気では湯もぬるい。それでも、変わり風呂「どくだみ湯」など数種の温泉を楽しみ、それなりに満足した。
休憩室で冷茶を飲みながら、東横インのHPを見る。翌11日(日)は「旭川駅東口」に空きがあり、しかも3,456円という安さだった。
旭川では例年「Compa3.7」というネットカフェを利用するのだが、どうも会員カードを紛失したようで、何となく利用しにくい。系列店の会員カードは携行したが、昨年はあまりいい顔をされなかった。とはいえここで東横インに予約を入れてしまうと、今年はCompa3.7を利用できないが、どうするか。
しかし3,456円という安さには勝てず、私は旭川東口に予約を入れた。なお、東横インは有料ビデオも500円と安く、今回は合わせて申し込んだ。
これで12日までの宿がすべて決まった。結果的に今回は、楽天トラベルを利用しなかった。
ルオントを出てバスの待合室に入る。ここはBGMが流れていて、妙に落ち着くのだ。
私は復路、すなわち13日(火)の飛行機の時間も考える。当初は早い時間に帰るつもりだったが、同じ1日なら夜に帰ったほうがよい。最終便とその2本前に株主優待券利用可の空きがあったので、21時発のANA便を予約した。
ひとつ気になったのは、これがAIR DOとの共同便であったこと。ANAの機内誌が読めないのは残念だが、仕方ない。
ところがこの便の選択が、あとでとんでもない悲劇を生もうとは、この時の私は知るよしもなかった。

名寄行きのバスは定刻を1分遅れの16時16分に到着した。この雪山を、わずか1分の遅れである。日本のバスダイヤは、鉄道に劣らず優れている。
乗車すると、客は私ひとりだった。これも毎年のこととはいえ、さびしい。
バスは静かに走り、16時49分、朱鞠内着。ここはかつてのJR深名線の主要駅で、廃線時は駅舎も保存されたが、その数年後不審火に遭い、焼失してしまった。現在はシャレた建物がバス待合室となっている。
しかし乗客はおらず、すぐに発車した。
なお、今年はバス備え付けの時刻表が新装され、各停留所が記されて、便利になった。
バスは、まどか前を通る。深名線沿線は大自然を堪能できるが、ここから先、エンジン橋、母子里バス停までの風景が白眉だ。
私はまさに今、そこを通っている。眼下に雪景色が広がり、目を瞠る。貸し切りバス状態で優越感に浸れるが、横に彼女がいたら、もっと楽しいだろう。ただし、彼女がこのバスに付き合ってくれるかどうかは疑問だが。
辺りは徐々に暗くなり、白と黒の世界になった。人家もなく、よく運転手さんは道を間違えないものだと思う。
運転手さんは時折本部と無線のやりとりをして、道路状態を報告し合っていた。
すっかり暗くなって、17時53分、私は名寄のひとつ手前の「西3条南6丁目」で降りた。貸し切りで1,330円は、驚くべき安さであった。
今日最後に向かうは、南広場で行われる、「第66回なよろ雪質日本一フェスティバル」である。
この雪まつりは世界各国の手練れが雪像を造るのだが、その作品が知的で素晴らしい。芸術性を加味すると、ここ名寄の雪像が日本一と思えるのだ。
南広場に入ると、その作品群があった。今年も素晴らしい出来映えに違いないが、会場に客が少ない。
ステージでは、椅子取りゲームが始まらんとしていた。しかし参加者は集まるのだろうか。
(つづく)
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15歳7ヶ月の将棋(後編)

2018-02-21 00:44:01 | 将棋雑記

第6図以下の指し手。▲4一銀△6二玉▲5一角△7一玉▲3六歩△同飛▲3七歩△7六飛▲7七銀△7五飛▲8四角成△7三銀▲7五馬△同歩▲5二銀不成△7六歩(第7図)

この将棋は先輩が何人かギャラリーで観ていたはずだが、あまり記憶にない。
現在の目で見ると、第6図では▲4三成桂がある。対して△6二玉は指せないので△4三同玉だが、以下▲6一角△5二銀(△3二玉もある)▲3六歩△同飛▲3七歩△7六飛▲7七銀△2六飛右に▲3四銀(参考3図)でどうか。

これは攻守ところを変えて、先手が一手勝ちしそうな雰囲気だ。
だが私は▲4三成桂に気付かず、▲4一銀と打ってしまう。対して△6二玉がやや軽率だったか。私はすぐ▲5一角に飛びつき3三の成桂にヒモをつけたが、これも甘かった。
ここは黙って▲3六歩だった。これに△3三飛は▲5一角があるので、後手はこの成桂は取れない。つまり、焦って▲5一角を打つ必要はなかったのだ。
本譜、私は▲3六歩から飛車道を止め、△7五飛まで。ここで角が手持ちだったら、▲8四角から王手をする。以下△7三銀▲7五角△同歩となった時、後手玉が6二なので、まだ綾があった。本譜は後手玉を7一に逃したのが大きいのだ。
この△7一玉の局面でも何かないかと手を探したが、結局▲8四角成とするしかなかった。
少年は△7三銀と壁銀を立て直す。これが大きな手で、完全に後手がよくなった。
▲7五馬△同歩。ここで歩が豊富にあれば▲7四歩△同銀▲7三歩が候補に挙がるが、1枚ではしょうがない。▲5二銀不成はこんなものであろう。
そして△7六歩の応手は?

第7図以下の指し手。▲8六飛△8五歩▲7六飛△5四角▲4三成桂△7六角▲同銀△1九飛成▲5三成桂△6二香▲5四角△5六歩▲6三成桂△同香▲同銀不成△同金▲同角成(第8図)

第7図でまたも私は▲8六飛、と守りに大駒を打った。これが▲6一金までの詰めろで、対局中は先の▲4三成桂に気付いていなかったから、あのヒドい将棋をここまで挽回したことに満足していた。
とはいえ▲8六飛はいかにもつらく、現在の私なら第7図ではふつうに▲7六同銀と取る。以下△5四角でも△5五角でも、▲7七歩で先手に不満がないだろう。
せっかく流れが変わっていたのに、ここは失敗した。
本譜はそれでも△8五歩▲7六飛△5四角に▲4三成桂が粘り強い活用で、私も劣勢ながら、すべての駒を働かせている。十分に初段の棋力はあったと思う。
少年は飛車を取って△1九飛成だが、緩い感じ。ここでもまだ△2七銀があったと思うが、少年の頭(もちろん私も)にはこの筋がないのだからしょうがない。
私は▲5三成桂~▲5四角と攻めるが、△5六歩が厳しい反撃だった。ハゲ頭の脳天を直撃するような手で、私が5筋の歩を取ったから生じた筋だ。
これは受けてられないので、私は▲6三成桂から▲同角成まで、再び後手玉に詰めろを掛けた。

第8図以下の指し手。△5七歩成▲同玉△5六歩▲6八玉△5七銀▲7七玉△7二銀▲6四香△6二歩▲7四歩△6三歩▲7三歩成△同桂▲7四歩(第9図)

△5七歩成が当然ながら厳しい。しかし即詰みはなく、▲7七玉に少年は△7二銀と入れた。これで私が僅かに足りないが、私は▲6四香と繋いで頑張る。ここ、単に馬を逃げる軟弱な手を指さなかったのは、我ながら素晴らしい。
少年は△6二歩。ここは△5五角▲6六金△6四角もあったが、△6二歩も冷静だ。少年も攻めより受けが得意なようだ。

第9図以下の指し手。△5五角▲6六銀△同銀成▲同歩△6五桂打▲8八玉△6六角▲9八玉(終了図)
まで、127手で指し掛け。

少年はまたも天王山に△5五角。以下数手進んで▲9八玉まで。

ここで少年が熟考しているうち、指導対局の準備をすることになり、指し掛けとなった。
私はこの局面、まだ先手に逆転のチャンスはあると思ったが、観戦していた先輩は「後手は大駒を持っているし、後手が勝ちだと思う」という見解だった。
終了図で攻めるなら△6七銀くらいか。しかし詰めろではないので▲7三歩成は入る。また▲7九金打と守る手もあり、以下△7八銀成▲同金△6七金▲7九金打は千日手だ。

ともあれ以上が、私の15歳7ヶ月当時の将棋である。
今回36年振りに並べ返してみて、おのが指し手に読みが入っておらずメチャクチャなところはあったが、随所に私らしい手も入っていて、感心する手順もあった。若さはじける高校生の私に再会でき、とても懐かしかった。
世の中に記録物は種々あるが、自分のかつての「プレイ」をそっくり再現できるのは、将棋ならではである。
36年前の自分に、ありがとう。

   ◇

藤田綾先生、ご結婚おめでとうございます。
何となく結婚しそうな予感がしていました。
末永くお幸せに。
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15歳7ヶ月の将棋(中編)

2018-02-20 00:38:36 | 将棋雑記

第3図以下の指し手。▲1六飛(途中図)

△3四角▲2五角△同角▲同歩△3三桂(第4図)

第3図で▲1七同香は、△1九飛▲2八金に、△2七歩でも△1六歩でも先手負け。
さりとて捨て置けば△1五香があるので、私は忍の一字で▲1六飛!と打った。
以前大野教室でSato氏と対戦した時、対ひねり飛車から▲9五歩△同歩▲9三歩と垂らされたのだが、私は次の▲9五香を防いで、△9四銀と据えたものだ。しかも2局も。
また、大野八一雄七段門下のO奨励会3級(現三段)に教えていただいた時、O3級の9筋の端攻めに、やはり▲9五飛と打って耐えたことがあった。
さらにいえば、私は六枚落ちの上手を持っても、下手の端攻めを全力で受ける。
つまり私は、相手の端攻めを全力で受ける棋風なのだ。それが15歳のころにすでに確立されていたとは、我ながら興味深かった。
対して少年は△3四角と覗いたが、逸機。ここは△6七角成(参考2図)とバッサリ行く手があった。以下▲6七同金は△7八飛。▲6七同玉は△6九飛でいずれも先手壊滅である。

ちなみにもし先手が飛車を手持ちにしていたら、△7八飛には▲6八飛で受かるが、ないものはしょうがない。
横歩取り△4五角戦法には大駒をタダ捨てする変化がよく出てくる。とくに「△6七角成」は頻出である。少なくとも今の有段の子供なら△6七角成はノータイムで指すはずで、してみるとこの少年は、奨励会を受験するにはちょっと厳しい棋力だったかもしれない。
本譜に戻り、△3四角に▲1七飛は、△1六歩▲1八飛△1五香でわるいと読んだのだろう。私は何と▲2五角と打ち返した。ここでも無論△6七角成があった(というか、さっきより条件がいい)のだが、少年は△2五同角。少年もやや負担だった角を持駒にし、ありがたいと思ったに違いない。
▲同歩に△3三桂と跳んで、後手快調の捌きである。対して私の次の手が、またヒドかった。

第4図以下の指し手。▲3四角△2三銀▲3五歩△3四銀▲同歩△2五桂▲3六飛△3七桂成▲同桂△2九飛▲3九桂△5五角(第5図)

私は△2五桂跳ねを防いで▲3四角。まさに受け一方の角で、その類の手に大駒を2枚使ってしまうのも珍しい。私は相手の攻めを切らすのが好きだが、当時もそんな思想で指していたようで、やはり興味深かった。
しかし現実的には△2三銀で角がおかしい。私は▲3五歩と角を差し出したが、これでは先手が不利である。
少年は角を取り、返す刀で△2五桂を実現した。私は銀桂交換を甘受し、△2九飛にはその桂を3九に据える。まさに泣きたくなるような手で、今の私なら投了している。
少年は天王山に△5五角。

第5図以下の指し手。▲3三歩成△同金▲4五桂△3五歩▲同飛△4四角▲3三飛成△同角▲同桂成△3五飛(第6図)

第5図の△5五角は好点のようだが、ここでは△2七銀があった。▲2七同金は△3九飛成。▲2七同桂も△4九角で先手敗勢だ。△2七銀も時折り出る手筋で、難しくはない。やはり少年は、実力を出し切れてなかったのだろう。
ともあれターンが回ってきた私は、▲3三歩成から反撃する。これを△3三同角は▲4五桂があるので、少年は△3三同金。それでも私は▲4五桂と跳ね、少年の△3五歩~△4四角には構わず▲3三飛成と突っ込み、この折衝は金得の上、成桂までできた。一挙に形勢が縮まったのである。
戻って少年の△3五歩では、ここでも△2七銀があったのではないか。
もっとも少年は、第6図の△3五飛に期待したようだ。この両取りが痛く、やはり先手の分がわるい。
ところが…。

(つづく)
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15歳7ヶ月の将棋(前編)

2018-02-19 00:05:45 | 将棋雑記
第11回朝日杯将棋オープン戦は17日(土)に準決勝・決勝が行われ、藤井聡太五段が羽生善治竜王、広瀬章人八段を破り、見事優勝した。優勝賞金は750万円。
そして藤井五段は全棋士参加の一般棋戦で優勝したことにより、六段昇段を決めた。藤井新六段は今月1日に順位戦C級2組で一足早く昇級&五段昇段を決めていたので、五段期間はたった16日。四段デビューから数えても、わずか1年5ヶ月で二段階昇進の快挙となった。
その藤井六段は今日19日で15歳7ヶ月となる。そして私にも、15歳7ヶ月の時があった。
そこで今日は、数十年に一度の天才と、50歳過ぎの無職男を比較するのもナンだが、その当時の私の将棋を記してみる。

1981年11月3日(火・祝)
於:J高等学校将棋部
▲1級 一公(高校1年)
△四段 少年(中学2年)

初手からの指し手。▲2六歩△3四歩▲7六歩△8四歩▲2五歩△8五歩▲7八金△3二金▲2四歩△同歩▲同飛△8六歩▲同歩△同飛▲3四飛(第1図)

この時私は、正確には15歳7ヶ月半。
私の高校は当時、11月2日と3日に文化祭が行われていた。日程が固定されているのは、OBも日にちを確認せずに訪れることができるためだった。
私はもちろん将棋部に属していて、この日は人気棋士の真部一男七段が指導対局に見えることになっていた。
その待ち時間に、中学2年生の少年が遊びにきた。彼は奨励会を目指しているとのことだった。
彼と部員が対局することになったが、先輩から「大沢、相手してやれ」の声が飛び、私と指すことになった。しかし当時私の棋力は初段前後。とてもプロ志望者に勝てるとは思えないが、精一杯指せば勝機はあると思った。
たぶん振駒はせず、私が先手だったと思う。私は当時振り飛車も指していたが、居飛車のほうが多かった。矢倉などはスズメ刺しの勉強をしたものである。
私は▲2六歩。今もそうだが、当時はひねり飛車も好きだった。
だが本局は△3四歩▲7六歩から、相掛かり系となった。以下、お互い飛車先の歩を切る。△8六同飛に、私は気合で▲3四飛と取った。

第1図以下の指し手。△8八角成▲同銀△2八歩▲同銀△4五角▲8七歩△7六飛▲7七歩△3四角▲7六歩△1二角▲3八金△7二金▲5八玉△5二玉▲1六歩△2三角(第2図)

少年は大人しそうな感じだった。第1図から少年は△8八角成。今なら9割が△3三角である。
少年はさらに△2八歩~△4五角。いわゆる「△4五角戦法」で、当時は谷川浩司七段が連採し、好成績を収めていた。
△4五角に定跡は▲2四飛。以下△2三歩▲7七角△8八飛成▲同角△2四歩▲1一角成△3三桂(参考1図)が変化の一例だ。

しかし定跡に疎かった私は、▲8七歩。△7六飛にも▲7七歩と謝った。
いかにも屈伏の手で、▲7七歩ではせめて▲7七銀であろう。ちなみに別日で先輩と似た進行になり、▲7七銀以下、△同飛成▲3二飛成△同銀▲7七桂、の手順が現れたこともあった(結果は51手まで私の勝ち)。
本譜▲7七歩には△6六飛と寄る手もある。飯島栄治七段の名著「横歩取り超急戦のすべて」(マイナビ)では、▲2四飛△2三歩の2手を加えたあと、▲6八玉△6七飛成▲同金△2四歩▲5六歩まで互角、と教えている。が、少年はたんに△3四角。これも立派な手である。
しかし▲7六歩に▲8四飛を避けて△1二角と引くようでは、少年もちょっとしくじったか。
お互い居玉を解消し、▲1六歩に△2三角。少年も手探りのようだ。
次の手を私はまたひるんだ。

第2図以下の指し手。▲2七歩△2二銀▲3六歩△7四歩▲9六歩△1四歩▲2六歩△8二銀▲3七銀△1五歩▲同歩△1七歩(第3図)

私は▲2七歩と謝ったが、どれだけチャンバラを恐れているのだろう。先の▲7七歩もそうだが、こんな手を指すくらいなら横歩取りを指すな、というくらいのものである。
△1四歩に▲2六歩も意味不明。ただ、自陣にスキを見せないよう、慎重に指している様は窺える。
▲3七銀にスキありと見て、少年は端攻めにきた。
△1七歩に、次の手を当たる人はいまい。

(つづく)
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