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空想歴史ドラマ 貧乏太閤記 162  讒言の波紋

2023年02月21日 18時01分14秒 | 貧乏太閤記
 「殿下、朝鮮より使者が参りました」
秀吉は朝鮮から戻って来た福原、熊谷の二人の軍目付に会った、そして戦の概要を聞いた
「まことに危うい戦でありました、あと2日救援が遅れれば、加藤殿は敵に降参したでありましょう」
「ばかな! あの剛直な虎之助は死んでも降参などするわけがない」
「それが、そうでもありませぬ、後詰がつく前から夜に紛れて数名、十数名と敵陣に投降した者がおります、寒さとひもじさに負けた者たちと聞いております」
「それは由々しき問題じゃ、後日虎之助を詰問しよう」
「それから、こちらの書状でありますが、諸将が戦のあとで合議して決めた取り決めでございます」
「なんじゃ」
「此度の戦で、城普請も間に合わず、救援も遅かったので蔚山、梁山、順天の各城を破壊して、防御地域を縮小するという案でございます」
「なに、、これは皆の総意なのか?」
「いえ、われら二人と垣見殿の目付三人は殿下の決められたことを変えてはならぬと申しましたが、加藤殿、蜂須賀殿、黒田殿が押し切りましたのでございます、それも小西様、鍋島様の御到着をまたずに決めたのです、小西様がおられたなら、このようなことは許されなかったでしょう
「何たることだ、蜂須賀と黒田は秀次がことでも疑いがあった者どもだ、いずれも親父たちは儂と共に苦労したというに、倅どもの呆れたことよ」
怒った秀吉は、二人の奉行に命令書を持たせて、釜山に返した
「毛利秀元、小早川秀俊は帰国せよ、また蜂須賀家政には帰国して謹慎を申し付ける」
「黒田長政は梁山城を放棄して、亀浦城へ転出せよ、蔚山城は加藤清正がそのまま残り、急ぎ補強して総曲輪と堀を完成させよ、順天城は小西行長が万全の構えにして放棄することは許さぬ」と命じた。

 蜂須賀家政、黒田長政、加藤清正はたいへんな苦労をしたにもかかわらず、秀吉から叱責を受けて腹の虫がおさまらない
自分たちが、このような目に遭ったのは、名護屋に行って秀吉に面会した軍目付の二人であることを知って、殺意さえ覚えた。
福原も熊谷も、石田三成と親戚関係にある、そこに我らを貶めた原因があると考えた。
今までの秀吉は加藤や黒田の父であり主君であった、それが秀頼誕生以来まったく人が変わり、身内であれ功臣であれ疑えば殺してしまう人間になった
こうなると、疑いの目を向けられた大名の受け皿は、おのずと秀吉に次ぐ大大名、徳川家康となる。
 徳川家康は、かって小牧で5倍の軍勢の秀吉と大戦をして、五分以上にわたり合った実績がある、それは諸大名で知らぬ者がない。
ここにきて、その風格は増し、関東で250万石8万人もの軍を動かす実力者
しかも人当たりは良く、かといって他を制する圧力もある
頼ってくる者は拒まず、豊臣恩顧の大名たちも、秀吉から冷たい扱いを受けるうちに自然と家康になびく者が増えてきた。
彼らから見れば、秀吉は石田三成ら五奉行を中心の近江者で身辺を固めているとしかみえない、そしてそれは淀殿、秀頼を守るためのスタッフであった、
もはや加藤、福島、黒田など尾張時代から仕えた者たちは忘れ去られたとしか思えない
そうなると三成に対する、嫉妬や妬み心も出てくる
「困ったら、徳川様を頼りなさい」と言った北の政所も今や秀吉にとっては、存在感が薄れているようであった、政所の心も秀吉から離れ始めていた。
秀吉の家臣団が、秀吉派と政所派に割れようとしている、それを見破れぬ徳川家康や本多正信ではない、しかも秀吉の老化は誰の目にも明らかである
今でいう「認知症」の傾向も見えてきた
一日の中で1~2回、おかしなことを言いだす、だが、それ以外の時間はいつもと変わらぬ鋭いまなざしと、しっかりした口調の秀吉だから、うかつなことはできない。

 徳川家康は自分の方が秀吉より長生きすることを確信した、そうなれば次に何をするべきか自ずと見えてくる。
だが家康は急がない、40年と言う長い年月を今川、織田、豊臣の下で生きてきた男だ、待つことと耐えることが身についている
「棚からボタ餅が落ちてくるまで、口を開けてはなりませぬぞ」
「わかっておるわ、ボタ餅が腐り始めて来ておる、下手に食べると腹痛をするでのう」正信の戯言に、家康も戯言で返した。
どんな王者にも平等に死が訪れる、「まことにありがたきことよ」
信長、秀吉が消え去れば次は家康が浮かび上がるのは、間違いない
「正信よ、忙しくなるぞ、天下は勝手に転がり込んでくるから、戦のことなど若い者に任せて、我らは徳川の天下を1000年続ける段取りをするのじゃ」
「いかにも、織田家も豊臣家も後継ぎで失敗しておりまする、天下を取ったことに満足するからこうなるのです、殿はやはり名君でござる」
「おだてるではないわ正信よ、これからが本当の勝負じゃ」
ついに徳川家康に天下取りがはっきりと見えてきた、目標が定かになれば、こうした天才はぶれずに突き進むことが出来る、しかも長年かけて優れたブレーンを育てた甲斐が、いまようやく実を結ぼうとしている。
「なぜ明を奪うなどと考えたのであろうか」
「耄碌(もうろく)されたのでございましょう」
「耄碌か・・・ふふふ」

 蔚山城の戦が終結したのは慶長3年(1598)1月のことであったが、1万とも2万ともいう死者を出して大敗した明軍であったが
早くも巻き返しを図って、2月には新たな陣立てをすると続々と国境を越えて、遼東から漢城に集結した
朝鮮軍も、当然ながら軍の再編を行い明軍に合流した、水軍は李舜臣が再び軍船を補強して、海からも日本軍を脅かそうとしている
これに明国水軍も陳璘(チェンリン)提督が広東より北上して朝鮮黄海南陽湾に集結した。
ここで兵糧や装備を集め、兵の訓練などに月日を費やした、明軍にとっても、今度は絶対失敗をしてはならない、
日本軍の強さと、残虐性をいやと言うほど見せつけられた、小国と侮って大失敗したのだったから
じっくりと時間をかけて何度も有効的な作戦を探った。夏に入るころようやく策もまとまり明軍の総大将シンジェは軍団長を集めて作戦会議を行った
シンジェは大敗を喫した前回の蔚山攻を振り返り
「蔚山では数を頼んで一気に攻め落とす予定が、思いのほか加藤清正の抵抗が強く後れを取ってしまった
日本軍も終結させるとすぐに数万が集まるから、此度の作戦は敵を分散して各個撃破する作戦をとる
軍を三つに分けて、それぞれ蔚山、泗川、順天を攻撃する、こうすれば敵は分散せざるをえない、しかも日本軍は半数程度が帰国して今が手薄である
前回の勝利に酔って、我らが立ち直れぬと考えて油断したのであろう、明国の偉大さを今こそ見せてやる
第一軍は麻将軍が3万で蔚山城へ、第二軍は薫将軍が1万5千で泗川城へ、第三軍は劉将軍が2万5千で順天城を攻撃する
さらに水軍とも連携を取って海上からも攻め寄せる、こんどこそじっくり緻密な攻撃計画をたてて9月より開始する」




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